――入院記より 
 
春の烈しい風の吹く午後の点滴室で、冬の終わり 
もう、ひと月も前に、イマムラさんが行ってしまったことを聞く 
その日、病棟と病棟のあいだの晴天にひらいた木蓮の 
ただならぬ沈黙を示す白の後ろには、永遠に欠落して、人を 
凄まじい力(フォース)で招びつづける青い淵が拡がっていた 
なにげなく部屋に置かれた額縁のように、写真のように、装飾(かざり)のように 
 
 午前二:四〇座薬。七:〇〇現在、痛み昨日と同じ。 
 あと二時間はガマン、か。何もする気になれないが、かといって 
 じっとしていることもできない。八:三〇座薬。 
 時間まであと一〇分あるが、かまわずボルタレン使用。 
 
背高のっぽうで痩せていて、薬ですっかり頭は禿げあがっているが 
その毒舌は元気なころと変わらない。「同期」でただ一人残ったコウノさんとは 
飲み仲間で盟友だ。入院していても、酒は飲り放題、煙草も吸い放題なのだが 
どちらの悪徳も、もう体がうけつけない。大好きなスパゲッティも、気に入りの店に 
女房や娘たちとにぎやかに繰り出すのは三日に一度になってしまった 
それでも朝ごと、コウノさんと喫茶室で、けっして女には理解できない愉楽を談じて 
いる 
 
 一〇:三〇、朝の検温。血圧一四〇―九〇、体温三六・三℃。 
 ふと、家持の「いささむら竹」の歌を駘蕩と想う。その「かそけき」音は 
 まだいくぶんか、古代の幽暗なひびきを伝えていたのだろうか、 
  それともそれは、近代にかよう響動(とよみ)ででもあったのか? 
 
イマムラさんは製図屋だ。彼の引くテーパーやアールの角に 
どんな積算の結晶が積まれていたかは分からないけれど、彼じしん 
ある日、天から降りてきた透明で精密なコンパスに、時空を深く限られてしまった 
「冗談じゃねえ、馬鹿ばっかり言ってんじゃねえや」と皮肉に笑い、照れたように 
図面を引く手を止めて、扉を開けて出ていった背高のっぽうの、後ろ姿を見る―― 
春の闇を濃くしてふりはじめた、春の雨のむこうに 
 
 ソセゴンはダメ。二夜つづけて鎮痛に失敗。ソセゴンを服用しても 
 ボルタレンが普通に切れる時間になると、極く普通に痛い。 
 これではなんのための劇薬か。現在四:四五、ボルタレンが 
 再び切れて眠れないので、デイルームの窓ぎわにこうして、座っている。 
 
六:四五、西の空に、夕日のような色をした巨大な月が沈もうとしている 
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