集古館にて
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集古館にて



柿色の服の後ろ姿が見える、粒のような白髯の老人は、
つくづくと暗い沖に滲む帆をうちながめて、後ろ姿しか見えない、その、
 ほのほのとあかしの浦のあさきりに嶋かくれ行舟をしそおもふ

青年期をいくらも出ていない、壮齢の男性の、悍馬は轡を咬み、
男の肩のあたりのそこにだけ、ちりかかる棘のような皓い雪意が凝る、その、
 駒とめて袖うち払ふかけもなし佐野のわたりの雪のゆふくれ

きみと久しぶりに街を歩いた、古い地下鉄の駅からあがって
(空、ではない)天が少し近づいたような、六月の、垂直の
畏れられるべき、透明で荒々しい、光を木の間から浴びて
ずいぶん久しぶりに、桜田通りを曲がり、霊南坂を横に見て
アメリカ大使館のことなどをきみに喋った、きみは
おしゃれして来なかったことを、ほんのちょっぴり
後悔しているようだった

東山は金泥の雲に沈み、幾重にも背後の剥落をたたえながら
寺社は華麗だった、けれど隣り合った屏風で、立ったり坐ったり
立て膝の少女や少年は軟風に靡き、いま興った通町の日々にいるのだが
僧とギルドの占有にかがやいた、千年を死ねなかった彼女たちが、初めて
緋と青をまとって静止した、その、あやうい一瞬だったのだ、それを、私は見た
金泥は背景にすぎないが、背景さえ、金泥なのだった

atagoといったか、ほんとうはwotagiなのか、知らないけれど
丘はふたつあって、きみに話したことがあったろうか
私たち少年三人四人は、谷みたいになった広い通りを溯り
四角くて薄いピザを出す伊太利料理屋の、地獄めいた臭いに怖じ気づいて
ハンバーガー・インの二階から、勇を奮ってウエイターを呼んだっけ
昼間は大使館の三階あたりを睨みつけ、夜になると封鎖したorchid houseで眠った
あのころは考えもしなかったが、海抜が次第に失われてゆく
われわれ、みじめで心の貧しい難民のために、いかなる祈り(ブレス)が、荘重に
ジェリコみたいに仰ぎ見る、霊南坂の砦では、上げられているのか?

暁闇がある、銀の、截りとられた半円の朝、と
鉛のように裂かれた、金地の、もう半円の夕映えの奥に
(夜の鏡にさかる火、の)ほのひらく白梅花が、かろうじて浮かぶ
くろぐろとふとい筆致で、うた、が、したためてあるけれど、
私には、読めない、判らない、近づけない、ただ
陸離たるほとけの名を持つそのひとの、見ていた高さだけが理解できる
墨痕はただちに花を指し、書かれることで、なんということだろう
花は、淋漓として消失しているのだ

昼間だけれど、ホテルのバーなんて、ほんとうに
あれから何年も来ていなかった気がする
昼酒をやると、すぐ頭がずきずきしちまうのは、薬と
でも、年のせいか? 電車を乗り継ぎ、光の下をここまで歩いて来たことが
じつのところ、自分でも信じられないんだ、カウンターの止まり木で
古き良き、(ちょっとばかりやくざな)シナトラを聴いていると
きみと暮らしていることが、疼痛のようないとしさで
私の胸に降りてくる
こんなことは、きみと一緒になったばかりの頃にもあったのだけれど
いまはもっと静かで、痛い

夜鷹は、さんばら髪みたいに枝垂れる柳の下、
ぞっとするほど美しい、男娼のような横向きの立ち姿で、見得を切る
人生は九十年、画狂人のその青ざめたデザインの、退廃的なまでに撓う組織系は
たぶん五百年――濡れ燕が南に去るむかし、洛北の、やわらかく新鮮な絹本に
極微の花々の幾千から織りなされた、大きな空虚(うつろ)をはらんだ、冷たく炎上する環が
二つ、三つ、四つ、くらがりに、燃える、時間に類焼し、燃えに燃えゆらぐ
遠い日の聖たちのように、春の山のあちこちで、轆轤を回したり、箔を打ったり……
その描線は、無限につづくかの、人形天皇の御宇を永からしめ* 、すべての空間を鎖(さ)し
だが、ほんの百年と少し前、冷泉の、殺された画家とともに刻薄に断たれた

集古館のくらやみを、あんまり見つめすぎたので
少々くたびれた、甘いものが欲しいなんて言ったら、笑われるかな
二階のテラス席にかけて、風に吹かれていると(汝現世ヲ諾エ)、という
また、あの密かな、誘(いざな)いの声が聞こえてくるようだ、襤褸のひとの、長い不在を伝える
しわがれて、なつかしい、あの声が
六月の天は、冷えて、硬質で、きらめくアポロンのように残酷だ
エントランスから、ベルボーイに呼んでもらったタクシーで、新橋に降りる
にぶく光るリヤカーの長柄を握った、痩せた老爺が、のろのろと、
私たちのまえを行き、立ち止まり、思いのほか、高い鼻梁の横顔で、手をかざし、
海のほうに峨々とそびえる、白銀の高層ビル群を、はるばると見やる
彼の、かなたに戦ぐ、若い日の宴と流離
その、
 おほはらやをしほの山もけふこそは神世のこともおもひいつらめ



*芭蕉「大裏雛人形天皇の御宇とかや」(延宝六年)による。
引用の書画は、出現順に、大倉集古館で開催された「京都・細見美術館名品展――コレクターからの贈り物」より、鈴木其一の画・書による豆絵巻、東山図屏風、男女遊楽図屏風、江戸名所遊楽図屏風、本阿弥光悦・梅下絵和歌書扇面、葛飾北斎・夜鷹図、俵屋宗達画工集団による四季花卉の図、冷泉為恭による年中行事図巻、ほか。

03/6/27


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