(承前)
ところでこの時期の芭蕉に特徴的なのは、自らの「点削」に関する文言がしばしば見られることである。当書簡の中でも、
先(まづ)判詞むつかしく氣の毒(=困ること)なる事多(おほく)御坐候故、点筆を染申(そめまうす)事はまれまれの事に御坐候間、重而(かさねて)御免被成(なされ)可被下(くださるべく)候。
という具合に句の点削についてはかなりはっきりと消極的である。これは芭蕉のはじめからの態度ではない。現に延宝五ないしは六年頃(一六七七〜八)には俳諧宗匠として立机していたと見られ、元禄二年三月、「ほそ道」の旅に際して庵を人に譲り、無所住の身となるまで点者の生活を送っているのである。半残を含め、多くの門人が句評を求めるのは無理からぬところだが、この時期あたりから芭蕉は「世間」の中での自らの身の置きどころということを真剣に考え始めていたふしがある。「判詞むつかしく氣の毒なる事多御坐候」というのはたぶん実感であり、より具体的には「句評之事、点は相違有物にて御坐候。其段常の事ながら、其元に而俤ある事、爰元にては新敷(あたらしく)、其地にて珍らしき句、此地に而は類作有様(あるやう)の事も御坐候」(貞享三・四年三月十四日付東藤・桐葉宛書簡)といったことを指すのであろうが、それだけが点削を止める理由ではあるまい。必ずしも「世間」への鬱懐というのでもないと思う。彼は狷介な人ではなかった。この間の事情は、天和年間の木示(桐葉)宛書簡で「野夫病氣引込(ひつこみ)候而、点作止(やめ)申候へ共、遠方被指下(さしくだされ)候故、任仰(おほせにまかせ)候」と述べられているとおり、「病氣引込」という言葉がものがたっているようだ。芭蕉が蒲柳の質であったことは事実であり、これが通りいっぺんの言い訳とは思わないが、「病氣引込」は一面彼の「世間」に対するあるメタフィジカルな態度の選択であり、世を渡るありようの譬ではなかったか。そしてここから彼の「旅」までは、指呼の間にあるものと私は考える。
さて、書簡の終わりちかく、次のような一節がある。
江戸句帳等、なまぎたへ(生鍛)なる句、或は云たらぬ句共多見え申候ヲ、若(もし)手本と思召(おぼしめし)御句作被成(なされ)候はゞ、聊(いささか)ちがい(ひ)も可有御坐(ござあるべく)候。みなし栗なども、さたのかぎりなる句共多見え申候。唯(ただ)李・杜・定家・西行等の御句作等(など)、御手本と御意得(こころえ)可被成候。
「江戸句帳」とは『武蔵曲(むさしぶり)』『虚栗(みなしぐり)』などを指す。武蔵曲、千春編、天和二年(一六八二)刊。虚栗、其角編・自序、芭蕉跋、天和三年(一六八三)刊。当書簡からへだたること三年に満たない。当時の作風を参考のために挙げておく。
梅柳嘸(さぞ)若衆哉女哉 (芭蕉)
上巳
袖よごすらん田螺の蜑(あま)の隙(ひま)をなみ (同)
あさつきに秡やすらん桃の酒 其角
梅咲リ松は時雨に茶を立る比(ころ) 杉風
櫻がり遠山こぶしうかれたる 嵐蘭
主惡(アルジニク)し桃の木に竿もたせたる 同
艶奴(エンナルヤツコ)今やう花にらうさいス 愚句
これらは天和二年三月二十日付の木因宛書節で「当春之句共」として引かれたものだが、冒頭の芭蕉句、三句目の杉風句、四句目の嵐蘭句は武蔵曲に所収されている(嵐蘭句は下五「うかれ来ぬ」の形で収める)。また、いわゆる「虚栗調」の句を芭蕉自身の作から採ってみると
憂テハ方ニ酒ノ聖ヲ知リ、貧シテハ始テ銭ノ神ヲ覚ル
花にうき世我酒白く食(めし)黒し
老—杜ヲ憶フ
髭風ヲ吹て暮—秋歎ズルハ誰ガ子ゾ
夜着は重し呉天に雪を見るあらん
茅舎水ヲ買フ
氷苦く偃鼠(エンそ)が咽をうるほせり
(以上虚栗所収)
すべての句がそうだとはいえないが、また当時の詩の風俗としての談林調から脱皮をはかっているのにせよ、前者はその伊達者風流(ぶり)の傾向が著しく、後者の老荘への傾斜は佶屈聳牙である。後年の芭蕉を思えば、「世間」に対して最も挑戦的であった時期と考えることができる。「なまぎたへなる句」や「云たらぬ句共」が頻出するのもある意味では当然のことだったといわねばなるまい。ただ、書簡の中で批判されている当のこの時期、すでに「兎角日々月々に改る心無之(これなく)候而は聞(きく)人もあぐみ作者も泥付(どろつく)事に御坐候へば」(前出木因宛書簡)とか、「其上(そのうへ)京・大坂・江戸共に俳諧殊之外(ことのほか)古ク成候而、皆々同じ事のみに成候折ふし、所々思入替(おもひいれかはり)候ヲ、宗匠たる者もいまだ三四年已前(いぜん)の俳諧になづみ」(天和二年五月十四日付高山伝右衛門《麋塒》宛書簡)といった言葉が見られるところに、天和—貞享期の芭蕉の変貌ぶりがいかに逞しいものであったかがうかがわれるのである。
一方、鑑にすべきとされている「李・杜・定家・西行」については、この貞享期に至ってはじめて開眼したわけではない。すなわち虚栗跋にいう。「栗と呼ぶ一書、其の味四つあり。李杜が心—酒を甞(ナメ)て、寒山が法—粥(ほふしやく)を啜る」「侘びと風雅のその生(ツネ)にあらぬは、西行の山家をたづねて、人の拾はぬ蝕(ムシクヒ)栗也」「白氏が歌を假名にやつして、初心を救ふ便ならんとす」。古人の名を列挙するこういう言い方は、芭蕉がたびたび行うところのもので、後の『笈の小文』や『幻住庵記』にもその例を見ることができる。ここで挙げられているのは、李白・杜甫(すなわち李杜)・寒山・西行・白居易となっているが、書簡では寒山と白氏が抜け、新たに定家が加えられている。この違いはやや微妙であって、彼の天和期の作風への批判が意味するなにごとかを象徴しているようである。それをあえていうならば、芭蕉における「中世」の発見だと私は考える。「野ざらし」の旅は、その点でも彼の一期を画するものであった。
書簡中、芭蕉に称賛されている半残の句がひとつある。最後に写しておきたい。
△帰路、横に乗ていづく外山の花に馬子、珍重珍重、風景感、春情盡候。
ここに芭蕉の「横」というイメージに対する独特の嗜好があらわれているものと私は見る。それは、後年の彼の次のような句に、はるかに水脈を引くものではなかったか?
野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす
荒海や佐渡によこたふ天河
一聲の江に横ふやほとゝぎす
(この項終わり)
*参考文献/江戸文學掌記(石川淳著・新潮社)、芭蕉文集(エ原退藏校註・山崎喜好増補・日本古典全書 朝日新聞社)、芭蕉俳句集(岩波文庫・中村俊定校註)。
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