貞享二年(一六八五)三月、『野ざらし紀行』の旅を終え、江戸へ帰る途次、尾張熱田に足をとどめた芭蕉はそこで大顛和尚の訃音を聞く。
大顛和尚。鎌倉円覚寺第百六十四世住職。岩波文庫版『芭蕉書簡集』では同第百六十三世住職(以後このテキストを『書簡』と呼ぶ)。諱(いみな)梵千、俳号幻吁(げんく)。寛永六年(一六二九)生まれ、享年五十七。其角参禅の師で、彼を通じて芭蕉とも親交があった。『虚栗』巻頭に「礼者門ヲ敲クしだくらく花明か也」の句を載せる。『芭蕉翁終焉記』によれば和尚はかつて芭蕉の本卦を卜した人であった。
四月、同じく尾張から、そのころ江戸にあったと推定される其角に宛てて芭蕉は和尚を悼む消息を送っている。
草枕月をかさねて、露命恙もなく、今ほど歸庵に趣(赴)き、尾陽熱田に足を休る間、ある人我に告て、圓覚寺大巓和尚、ことし睦月のはじめ、月まだほのぐらきほど、梅のにほひに和して遷化したまふよし、こまやかにきこえ侍る。旅といひ、無常といひ、かなしさいふかぎりなく、折節のたよりにまかせ、先一翰投机右而已(まづいつかんきいうにとうずるのみ)。
梅恋て卯花拜ムなみだかな はせを
四月五日
其角雅生
まずは足早な俳諧師の呼吸をつたえる文面といえよう。簡潔なタッチの中に委曲を尽くして間然するところがない。いまはこの点に留意しておきたい。
其角について多言をもちいるつもりはない。榎本氏のち宝井氏。別号に螺舎、螺子、狂雷堂、狂而堂、宝晋斎、六蔵庵、晋子など。芭蕉随一の高弟で自撰句集『五元集』ほか著書多数。寛文元年(一六六一)生まれ、宝永四年(一七〇七)沒。享年四十七。
さて、和尚遷化の事実は『野ざらし紀行』(岩波文庫版、以後『紀行』という)にも次の形で収められている。
此僧予に告ていはく、圓覺寺の大顛和尚今年陸(ママ)月の初、遷化し玉(給)ふよし。まことや夢の心地せらるゝに、先道より其角が許へ申遣しける。
梅こひて卯花拜むなみだ哉
ちなみに『書簡』では故人の名を「大巓」につくるが、諸本では「大顛」である。
ところで、芭蕉に和尚遷化をつたえた僧のことだが、『紀行』には「伊豆の國蛭が小嶋の(僧)桑門」とある。この僧が誰であったのか、いまではなかなか読みにくいが、それは路通に何らかの関係があった可能性がある。路通その人だったかもしれない。
路通。八十村氏、または斎部氏。通称与次右衛門、名は伊紀。慶安二年(一六四九)に生まれ、元文三年(一七三八)沒。享年九十。若い頃、僧形となり乞食生活を送る。素行にいろいろと問題のあった人のようで、その才を惜しまれながら、同門に嫌われ、芭蕉の勘気をも蒙ったがのちに許される。芭蕉との出会いは、あたかも彼が大顛を悼む消息を書くことになる貞享二年初夏(一説に三月とも)、「卯花拝む」季節であった。
大顛遷化についての『書簡』と『紀行』のつたえかたの違いは明瞭だろう。文字量は、後者では前者の半分ほどに削ぎ落とされているが、これをよりコンパクトになったといってよいものかどうか。かりに句のための「詞書」という役割を考えたとしても、俳文としては如何。近世の俳諧のむずかしさはこんなところにも表れているが、現代の私たちには『書簡』のほうがはるかに判りやすい。
これを句に即して見てみたい。一句の季語は卯の花をとって夏。上五の梅とは時期的な落差があるが、ここには卯の花と梅の花の「白」のダブルイメージがあると思う。すなわち、嘱目の現実である卯の花をよすがに、見えない梅を嘆いてみせている。あるいは、梅をしたって卯の花の「白」しか存在しない初夏の現実を悲しんでいる、という解も成り立つだろう。いずれにせよ、梅は大顛和尚の俤である。しかしこの俤が実は「にほひ」に結び付いているものであることに気づくまでには、私たちには若干の心理的な距離がある。一句の解は『書簡』の一節の「ことし睦月のはじめ、月まだほのぐらきほど、梅のにほひに和して遷化したまふよし」という部分にあり、これがあってはじめて、梅の「白」の幻の核心が「にほひ」であること(卯の花は匂わない)、そしてそれが故人の俤と分かちがたく結び付いていることに私たちは思い至るのである。少なくとも『紀行』の書きぶりは、ここで交錯している二つの季節の色や匂いを瞬時にとらええた古人の感覚が前提となっていることを忘れてはなるまい。だが、一句の解という意味からすれば、私たちにとって『書簡』は依然として「原資料」なのである。
ところで私には一句の挨拶が、先に挙げた「礼者門ヲ敲クしだくらく花明か也」の句にとどいているような気がしてならない。この、いかにも『虚栗』調の句に、芭蕉の連衆心はこなれた和様の文脈で応えている。『野ざらし』の旅が彼にとっていかなるものであったかが、このあたりにもうかがえるのである。大顛の逝去は、芭蕉には一時代への思いを深くさせるものだったに違いない。俳諧師の一句は、ほの明かりのなかで「門ヲ敲」いて出ていった人の俤をたしかに喚び起こしていると思う。
(この項終わり)
*参考文献/岩波文庫『芭蕉紀行文集』(中村俊定校注)。
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