塵中風雅 (二)
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塵中風雅 (二)



 貞享元年(一六八四)八月、『野ざらし紀行』の旅のために江戸を発った芭蕉は、同年冬、名古屋で荷兮、野水ら尾張衆と『冬の日』五歌仙を巻いたあと、郷里伊賀に帰り、そこで越年する。翌正月二十八日、句作りの上での具体的な指導を述べた書簡を残している。同郷の門人半残宛である。
 半残、山岸氏。名は棟常、また重助。通称重左衛門(十左衛門とも)。承応二年(一六五三)に生まれ、享保十一年(一七二六)六月二日没。享年七十三(芭蕉書簡当時三十二歳)。伊賀藤堂藩士で三百石前後の禄を食む。母は芭蕉の姉、すなわち半残は芭蕉の甥である。父の陽和、子(一説に弟)の車来とともに芭蕉に師事する。
 書簡は、半残が自らの句稿(発句と思われる)に評を求めたのに応える形をとっているが、芭蕉が「作品」に対してどんなふうに接していたのかを顕著にうかがわせるものだ。紙幅の都合で全文を載せることはできないが、いくつかのポイントを拾っていきたいと思う。まず前文を写す。

御細翰辱(かたじけなく)致拜見(はいけんいたし)候。御清書請取申(うけとりまうし)候。先日了簡(れうけん)殘り候句共(ども)、殘念に而 (て)、其後色々工夫致候而、大かたは聞すゑ、珍重に存候へ共、少づゝのてには不通(つうぜざる)所共、愚意に落不申(おちまうさず)候。句々、秀逸妙々の所、難捨(すてがたき)所々有之(これあり)候へ共、しかと分明ならず候間、御殘多(おほく)、江戸迄持參、彼是にもきかせ可申(まうすべく)候。

 まず、「其後色々工夫致候而、大かたは聞すゑ」という言葉が注目される。「了簡」が残る句は、少しずつのテニヲハがおかしかったり、「しかと分明」でなかったりして意に落ちないのであって、あたまから駄目なものとして切り捨てられているわけではない。これはたんに相手に気を遣って、というだけのことではなさそうだ。むしろ芭蕉は、総じて「難捨所々」のなかに油断なく「句意」を探っている。「句意」は、作る側のみならぬ読む側の「工夫」のすえにはじめて顕ちあらわれてくるものであり、何かある漠然とした気分といったようなものではない。「聞すゑ」るとは、そういう目に見えない一連の手順を踏んだうえでの言葉だと思う。そして、「御殘多、江戸迄持參、彼是にもきかせ可申候」という一節に芭蕉の独特な姿勢が見てとれる。句稿を江戸まで持って帰るというのだ。江戸の連衆の誰彼に「きかせ」るうち、またどんな「句意」にゆきあたるものとも知れない——というところまで句の「評」は押し拡げて考えることができる。暮夜、句稿を前に、と見こう見している俳諧師の姿が浮かんでくるようだ。

△京の砧、御講尺(釋)之上に而あらかたきこへ(え)申候。是はさも可有御坐(ござあるべく)候か。

 「京の砧」の全句形や、そこでどんな「講尺」が行われたのかは不明だが、句の背景の説明を聞いて納得したという点が面白い。「あらかたきこへ」たというのは、芭蕉の「工夫」がそこに「俳」を見出した、というところか。たんに説明を受けて句の意味がわかったということではあるまい。

祢宜が櫻は、しかも珍重秀逸に候。祇園か加茂などに而有之(これあり)候へば名句可有(あるべく)候。一ノ宮ノ景氣移兼(うつりかね)候而、判殘(はんじのこし)候。
  祢宜独(ひとり)人は櫻のまばら哉
と申に而、一ノ宮の景氣は盡(つくし)候はんか。され共句の景ははるかにを(お)とり申候。

 「祢宜が櫻」の全句形は『小柑子』(野紅編・自跋。元禄十六年[一七〇三]刊)所収の「烏帽子着て祢宜が桜のまばら哉」。「一ノ宮」は伊賀一の宮敢国(あえくに)神社を指す。要するに句は「秀逸」だが、その背景がちぐはぐだということだろう。いかにもひなびた神社に「烏帽子」はない。これも「しかと分明」ならぬ類であって、芭蕉は「判殘」したあげく、句自体を改作して相手に示し、おそらくは自らも納得させている。ひとつの手本であるにはある。しかし「句の景ははるかにをとり申候」というように、芭蕉はこれを相手に強いてはいない。問題はあくまでも一の宮の景気を尽くすことであり、自分だったらこのようにする、という連衆心が、半残の句を改えさせたと見るほうがよい。芭蕉にとって「座」は、こんなところにも出現しているのである。

*書簡のテキストは『芭蕉書簡集』(萩原恭男校注、岩波文庫)に依る。
本文中の事実関係、伝記等は『俳諧大辞典』(明治書院)、『総合芭蕉事典』(雄山閣)、当テキストに依る。


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