意味という喩
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意味という喩



 海埜今日子の新詩集『隣睦』(りんぼく)が出た。彼女の作品を詩集として展観するのは実は初めてのことだったが、色んな感想が湧いた。その一部分を、ちょっと書いておきたい。  一読して抱かされたことは、それは個々に発表された海埜作品を見るときにも感じたことだが、こうして一覧すると、その文体、とでも言おうか、語彙、とでも言おうか、それの実に特徴的な抵抗感である。むろん、詩作品であるから、散文的な明晰をそこに求めるのは当を得たことではないけれど、文脈はまるで踊るように、一直線に進むかと見れば立ち止まり、逡巡するかに見えて反転し去って読者の視界から遠ざかる。
 だけれども、ペースメーカーみたいにリトムを刻み統御するものがあって、抵抗感の拠ってきたるところは、ほんとうは踊るような文脈のつかみ難さと言うよりは、この統御の感じの、透明な隔壁を叩く如きリトムにあるのだと思う。それは粘着語としての日本語に特有の音楽的側面と言っていい。『隣睦』から任意の箇所を引く。(字詰めについては容赦されたい)

こみいった音がかきけされては、しびれをつたうたしかさもまたあったのだと。メモのなかから風がこぼれた。かれらはかれをなんどもむすび、秤のあわいにくずしてゆく。あなたは衣魚をページにもどす、今日のような手つきだった。呼気のはてに夜更けが急いていたのだと、だれでもなさが語りあった。距離のきしみに足拍子。わたしたちはかの女をいない。あなたは「僕」をすれちがった。かけらの後先にふりむく日付。
         (「あなたもまたかの女をいない。」より)


 これを、次のような「文」に対比してみたい思いを私はうまく抑えられない。

ゆめよりもはかなき世のなかをなげきわびつゝあかしくらすほどに、四月十余日にもなりぬれば、木のしたくらがりもてゆく。築土のうへの草あをやかなるも、ひとはことにめもとゞめぬを、あはれとながむるほどに、ちかき透垣のもとに人のけはひすれば、たれならんとおもふほどに、故宮にさぶらひし小舎人童なりけり。
         (『和泉式部日記』冒頭より)


 無謀ということを承知で対比したが、一息で述べる文節の息の長さと「意味」の明晰性について、海埜作品は『和泉式部日記』とは較べられないものの、私たちが感じるこれら二つの「文」の、話者と対象との距離感(滞空時間の感じ、と言い換えてもいいけれど)と、それによって自ずと圧し出されてしまう、等拍的なまとまりからなる韻律の感じは共通するものがあるかと思う。
 くりたたね、ときはなち、じゅんじゅんと囁く無限旋律には、和泉式部に限らず、たとえば紀貫之の模倣を招くほどにも日本の女にとって(あるいは東北アジアにおける女にとって)特有の理由があるのかも知れない。そういう意味で、この詩集における顕在的なモチーフが何であれ、海埜作品は無数にいたかも知れなかったイエやムラやクニの、少納言たちや式部らの語りの系譜を引くものではないか。ただし彼女は現代のマチの式部ではあるけれど。
 もうひとつ、話者と対象との距離感ということで言えば、彼女に特有の語法というものがある。引用作品に特徴的に現れているが、それはこんなもの。「かれらはかれをなんどもむすび、」「だれでもなさが語りあった。」「わたしたちはかの女をいない。」「あなたは「僕」をすれちがった。」
 たとえば格助詞「を」について広辞苑ではこんなようなことになっている。「対象を示す。他動的意味の動詞と対応して目的格的な働きをするが、奈良・平安時代には自動的意味の動詞や形容詞の前でも使われた。心情・可能の対象を示す「を」は、古くは「が」が一般的であったが、現代語では「人を好き」「故郷を恋しい」「字を書ける」など「を」も広く使われる。」
 海埜作品はさしづめ奈良・平安時代の用法、あるいはその用法を極限にまで押し広げた末、その語法の限界まで「現代的」に破ってしまったというところか。話者は対象にぜったいに触れないまま、対象そのものについて斧を打ち下ろすように「断言」している。「わたしたち」は「かの女」を「いない」のだ。傍目にはけっしてそうは見えないが、こうすることで確かに彼女のうちで終わらせられたり始められたりしているこころの装置がある。しかし、まるごとの「断言」をした結果、誰かが(ひとが、わたしが)血を流すことを絶対的に回避したいというおののきが、文法をおおきく歪め、意味の破綻の寸前で、却って無意識の生命みたいに「詩」をまさぐっているのではないかとも思う。
 対象をまるごと抱きかかえ、抱き締めるそのときに、内在的には絶対的に対象を厭離している、外している。この矛盾のなかで書くとはどういうことか。私の考えでは、そのとき文として顕在している「意味」が歪むのだ(こんなところに彼女の主体としての意外なしたたかさを見る思いがする)。言い方を替えると、このとき顕在している「意味」の歪みというものが、顕在していない一全体のあたかも喩の働きを為すのだ。このため、通常の詩的メタファーとしては拡散した印象があるこの「変な文」、これを逆に言えば、地の文(の意味性)そのものがいつ何処でも詩的メタファーに変わり得るような性格を持っていることがみとめられる。地の文(の意味性)そのものが非顕在のものの現れとして、完結しない喩という、捻れた形をとることになる。この捻れは大抵作品の最後で解決する。日本の詩において長歌のあとに必ず反歌が添えられて完結するように、海埜作品では(ことに成功している場合の多くは)最後に短い過去ないし半過去形の一節が添えられることによって、詩として明快に完結する印象がある。その、長い長い語りの始末をつけるように、あるいはたまさかの、任意の、偶然のうちに終息するかのように(語る時間の消尽、という最も決定的な物語の終わり)。次に引く。

「分岐路に、あなたの息がかさなった。ながい午後が隣にいない。」(「隣睦」最後)
「あなたは坂をおぼえていた。降ってくる、いたはずの場所がうらがえる。しずんだ冬のにおいがした。」(「降るほうへ。」同)
「着込んだふいうちが余白をやぶる。なんどもかわき、またよぎって。わたしはかれにまた出会った。」(「逃げ水」同)
「彼の足取りがにぎやかになり、ぶれない程度に、たぶん女をひきはなす。月は存外明るかった。」(「縫われる月」同)


 成功している作品の場合、だいたいが回帰的な帰結をとることが多いと思う。海埜今日子というひとの成熟して行くひとつの方向が示されているようだ。
 ここで見られるように、変形させられた意味は、非意味、つまりナンセンスなのではない。「歪んだ意味」は非顕在のものの現れとして詩の全体にまで根を張った喩であって、極北まで行くとすれば、その分節(された)そのものに接するだけで、意味を超えた意味とでもいうべき領域の感得にいたるであろう。一全体の分節がすなわちあまたの思考であり、意識であり、さらに言えば音楽であるという。それらは言語という形象を借りることによって、文は限りなく文に似た喩、意味は限りなく意味に似た喩、それどころか、喩も限りなく自らに似た喩であり、こういったことは音楽がある側面で精密な思考にほかならず、人がするあらゆる行動、情意、意識のくまぐまといったものがある一点から先は複雑でしかも蒸発しがちな音楽にほかならない、といったレヴェルの存在にまで繋がって行くものだと思う。ここまで来れば、音楽・文学・絵画・舞踏の別はほとんど無いといっていいだろう。言い換えれば、無のただなかに、形象、という針の先ほどの核を落とすことによって結晶し展開し始めるきらびやかなアラベスク。
 私は、海埜今日子がそこまで行っているとは考えていない。ただ、そこに触れ、そこへ繋がって志向する彼女の詩の性格を言いたいのだ。彼女はそこまで行っていない。けれどもこれからめざすかも知れないし、詩集最終部の「鳥肌の、そのかそけき行く先から、ふかい子どもが帰ってくる。」というように、ついにそこへは行かないのかも知れない。だがしかし、私たちは「その先」へ行ったまま帰ってこなかったひとりの天才が遊んだ、次のような領分を知識としては知っている。この連想はいずれにせよ、海埜今日子という詩人に伝えておくべきだと思った。

          しじま
 活きてきた、     くうかくが 、 煌すみおりする
            ひとり、ひとりの//
    そこ
ゆっとり、と さわゆぎ、ながら
           夜充、おんひつする様へ 流ろう、て
            (山本陽子『遺稿』詩篇より)


メタ 12号             2005・7月


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