片岡球子の人物画をその初期から見ていって、独特なものがあるのに気がついた。眼の光のつよさである。人物画といえば、ほぼ浮世絵の美人画を受け継ぐとされる(私はそうは思わないが)、明治近代以降の日本画が思い浮かべられ、それはごく少数の例外を除けばほとんど通俗読み物、あるいは新聞小説の挿絵に連続してゆくような、ある種の「やさしさ」に象徴される典型を想起させるけれど、片岡球子の絵にはそこから無限に逸脱してゆくような、已みがたい志向が見て取れる。
いま通俗読み物あるいは新聞小説の挿絵と言ったけれど、結論から申せば、それらは大和絵浮世絵(美人画も当然そこに含まれる)以来の絵の時間とははっきりと断絶がある、明治の御代に開闢した日本の近代画壇の人間観に、窮極的には連なるものではないだろうか。その美意識、というか、人間観の範型をもとめれば、それは必ずしも、われわれの祖先が創造の源泉をそこから汲み上げてきたという意味でのネイティヴな生活感情とは質を異にした、いわば接ぎ木されたバタ臭さ、みたいなものを仄かに感じる。いま現在われわれがテレビや映画で見、ポスターの写真や雑誌のイラストレーションで見、あるいは漫画で見るような、そしてそれを前提として「古風な美人」と形容するがごとき、「ある種の典型」と言ったら思い当たられるであろうか。
それに対し、片岡球子の絵画における人物群は、均斉のとれた美男美女の典型(type)を見慣れた感性にとっては、あまりに眼の光がつよい、と言っていい。紙本絹本にきっちりと描き分けられたその双眸だけによってわれわれの、男優女優や漫画のヒーローの視覚像に馴らされた感性を破壊しかけてくるような気さえしてくるのはなぜだろうか。群像たちの醜い、とさえ「現代常識」的には言ってさしつかえない、眼の光、顔の造形によるその破壊は、だがけっして不愉快なものではなく、ひとたびそれを受け入れてみたおりの自分のこころを、注意して静かに閲してみると、深い大きな安逸と、自らが何故にかくも(なにものかに?)疲労していたのか、という自覚がまざまざと拡がってくるのに(私は)驚く。これらは初期の「学ぶ子等」「緑蔭」「室内」などに紛れなく現れてい、大して違わない時期の「歌舞伎南蛮寺門前所見」では、すでに後に意識的な連作群となる「面構」シリーズの作と言っていいほどの時熟のさまを見せている。
「面構」では美男美女なんかひとりもいない。というよりは、顔のヨウスが良かろうがそうでなかろうが、片岡球子は近代的な意味での美醜の基準からはなっから外れたところで、対象の人間を遠く想い見、近く嗅ぎ、五感を須(もち)いて哲学したうえで彼ないし彼女が「美しい」かどうか、斧を振るうように濃厚な画をわれわれのまえに劈(ひら)いてみせるのだ。美醜ということで言えば、顔のヨウスなんかはすでにして江戸期に、美人画と同じくらいの質、量、情熱をかたむけて(どこからそんな情熱が湧いてきたのかわからないけれど)強烈にデフォルメされた作品群が描かれているし、文人画などを見ても、鉄斎、大雅、蕪村も当然そうだが、江戸以前のものも、とくに寒山拾得や樵・漁師、布袋・寿老人あるいは許由巣父の画題など、近代的な美醜観からはトテモツイテユケナイとんでもない表情が、ほんの少し前の日本では(あるいは中国、朝鮮、ヴェトナムでは)、賀すべきものとして、京(みやこ)や町や村落に流通していた、基準(standard)たるべき美にほかならなかったのだ。
そういう意味で、片岡球子の描く群像は痛快なまでに「近代絵画」であり得ていない。もっとも、球子画伯自身にとってみれば、近代絵画であるかそうでないか、洋画であるか日本画であるかはどうでもいいことにはちがいない。「面構」シリーズの発端となった人物について、彼女にしてかくのごとき言がある。
京都の等持院へ遊びに行ったところ、足利一族の木彫があるんです。尊氏は小学校では国家の逆賊として教えられていたのですが、恵比寿様のような福顔なんですね。眉も目もたれて、鼻はあぐらをかき、耳はたっぷり…、何と度量の深そうな素晴らしい顔だろう、そこで決めました、人間の面を描こうと。顔では弱い、もっとどぎつくしようというので「面構」のシリーズをはじめました。(図録34ページ)
「顔では弱い、もっとどぎつくしよう」という、これを球子画伯の渇仰の表現ととるべきか含羞の表現ととるべきか、微妙なところだけれども、いずれにせよ「面構」の面々を見ていると、われわれは「その人」に会っているという印象というか体験というものに、かなり正確に近づいているという感じがするのはたしかだ。見ているのではない、会っているのだ。それの絵画的表現が「もっとどぎつく」された輪郭線や色の厚みや眼の光なのだと思う。渇仰か含羞か、ということとも関係してくるけれど、どぎついというのは過剰によって表現することのみを意味しない。どぎつくして深く欠落するものだってあるわけで、その欠落が指し示すもの、一種の無がいやおうなく呼び覚ます、紙本だか絹本だかに定着された、つまり空間に定着された時間の揺らぎというものがたしかに存在する。
「その人」に会ったとき、例えば私が彼女ないし彼を美しいと思うのは、けっして客観的な範型のようなものでもって選り分け判断した結果ではない。そのとき視覚と同時にうごきはたらくものが「その人」の美醜を決定づけるのだ。逆に極論すれば、その「美醜」を「客観」的判断と言い換えてさえいい。「面構」の始めとなった足利尊氏像を「受け入れる」とき、そのどぎつさの外見とは反対に、自分のなかで何かが割れ、解きほぐされて非常に楽になるという不思議な体験をした。私の貧しい知見で知り得たところでは、この感じは、鉄斎や蕪村や古い中国の画、あるいは大津絵なんかを初めてそれと思って見たおりの体感と大層似ている。
女面構は今回の展示では比較的少数だが、その第一号である「北斎の娘おゑい」は、明治以降のありふれた描きようによっては、もっとこう、「はっとするような」近代的美人にもなり得たであろうに、全然違うのは、(そしてやはり美しいのは)それこそ眼のつけどころが違うとしか言いようがない。ちょっとした現象学を使えば、美人の典型のようにもてはやされる現代の女優やモデルの顔をよくよく見ると、つまり判断中止(epoche)という手順が必要なのだが、それと思ってざっと見ていたその顔が、思っていたより眼が離れていたり、頬骨が出ているような気がしてきたり、例えば口が下に付きすぎているような感じがしてくる。それは当たり前であって、まあ、言われるところの個性というものもあるだろうけれど、モデルや女優のような「美しさ」はあくまで(歴史的幻想的)お約束にすぎないのだから。「眼のつけどころ」によっては、同じモデルの顔を、お約束によって美人にも不美人にも描くことが出来、またお約束を離れれば「その人」に会ったとき瞬時にうごきはたらくものの導きにしたがって、美しくあるいは醜く、描くことになるのだと思う。
おゑいに会ったとき、私は間違いなく彼女を美しいと感じるだろう。黒田如水や日蓮や北斎と一別したとき、凄みと深さと強烈なシンパシーを感じるだろう。そういう人間が少なくなった。片岡球子は絵筆でそういうことをやったのである。
*日本橋三越本店で開催の「白寿記念 片岡球子展」による。
ゆぎょう 十九号 2004・6月
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