寂寞のなかでめしを食ふ
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寂寞のなかでめしを食ふ



   ――鎌倉薪能リポート

 このあいだ、鎌倉二階堂在の畏友から、以下のような便りを貰った。十月九日に大塔宮に奉納される(た)能狂言についてのもので、一部を引く。旧仮名調の戯文である。


 けふは雨模様ですね。/薪能は毎年10月8日、9日に開催されますが、例年、どちらか が雨のことが多く、昨年は小生の行く予定だつたはうが中止でした。翌日、我が家まで鼓の音が聞こへてきて、寂寞のなかでめしを食つた事を思ひだしました。今年はだうでせうかね。


 じつをいえばこの人のおかげで、初めて本格的な形式による能の興行を見ることができたのである。その、彼の差配になる手に入れづらいというチケットのせいばかりではなくて、何を措いても見に行かなくてはならないという気にさせられたのは、この一通のメールの寂寞に目を通したためと言っても過言ではない。
 ものを寂しむ、というのは、現代人が感じる寂しさ、悲しさとはちょっと異なった、感情というよりは世界に対する態度ともいうべきものであって、私の父親くらいまでの年代(明治末年生まれ)の感受性を限りに、大正生まれあたりともなるともう違ってくるようだ。たとえば釈迢空の詠草の「かそけさ(き)」などは、個人的な感情とはとても思われないし、芭蕉の、その生涯のうちに詠んだ、ヴァリアントを入れれば十二句まで確認できる「寂しさ、淋し」の語をふくむ発句などは、近代的な「寂しさ」の意味合いではとうてい詩になりえていないのである。
 これらは、季語として定着したのは大正以後であるという説もある「端居」が、なぜ夏の詩の言葉であるのか、ということとも通底する問題とも思われるけれど、誤解もされるかもしれないが、大雑把に言ってものを寂しむというのは、まるで悲しむごとく楽しむがごとく、現象とその彼方のものについて直接、惻々と味わい交感する態度なのではないか。夕闇が覆いかぶさる大塔宮の境内、私鉄会社のバスのバックする音も交え、虫の声を地謡のようにした開演前のざわめきにつつまれて、しきりにそんなことを考えた。
 古式ゆかしくとか古式に則って、とよく言われるけれど、能狂言が、ひいては芸能というものが祭事にほかならないということを、これほど強烈に押し出した舞台を見たことがない。この儀式(といってよい)には、正奉行と副奉行がいて奉納を取り仕切るといった恰好だが、この日の正奉行が江ノ電の社長さんで副奉行が地元の商工会議所の副会頭氏というのも、往昔の地頭や県主やはるかにムラのオサなどを思わせて愉しい。いや、これら奉行の役職を現代に比定すれば、彼ら以外には考えることがむつかしかったに違いない
 プログラムをざっと眺めて、以下のような式次第に(例年のことであるのかどうか私は知らない)、上演され鑑賞される演劇としてはただならぬものを覚える。修祓(軽く黙礼を、とのアナウンスがある)、鎌倉宮宮司による本殿における祝詞、素謡による翁(小袖肩衣袴姿の能楽師の衆がどうどうたらりと謡う)、衆徒(僧兵)五、六人による法螺貝の奏と(やや後に)「これより、神域のうちに人も魔も入ること許さじ」という意味らしい宣言および沈黙裡の社殿前の衆徒整列、篝への火入れ式(本殿の最奥の場所から、宮司と巫女の手で運ばれてくる火がちろちろと隠見する)、これより奉納をはじめるという意の宣言である僉義、能高砂、神酒賜わりの儀、休憩をはさみ、狂言宝の槌、能羽衣、さいごの附祝言の素謡……という進行を見ても、これが非業の神に向けた限りなく高い位の捧げ物(サクリファイス)であることがわかる。
 舞台は舞殿といったものではなく、恐らくは仮設舞台に近いものであろうが、四隅にたかだかと竹が立てられて、これがいかずちみたいに天から来るものを感受する仕掛けとなっているいっぽう、舞台下の篝火は儀礼のあいだじゅう火と火の粉、その爆ぜる音と煙、などをあげつづけていたけれど、この嘱目と音、匂いと目を燻す刺激は、もう二十五、六年前になるだろうか、奥三河の花祭を夜っぴて見通したそのときの焚火のことを思い起こさせた。あれは暖を取るためのものであると同時に、朝が来るまでヒトが全力で捧げ狂うスピリッツの源泉でありつつ、夜通し盛りつづけ躍りつづけているなにものかなのであって、私は鎌倉薪能の篝火にそれと同質のものを感じた。火が消えかければ、そこへヒトが薪をくべ足すのである。
 余人の目に触れさせない厳重な儀式でないとすれば、神事としての芸能儀礼が屋外、というか、いわば非・室内で執り行われるのは自然なことと思われる。いつか、はるかむかしだが、九段会館のホールに集められ演じられた舞台上の南宮大社のダンジリその他、いろいろな儀礼、芸能を見て、それらがやっぱり生きているとは言いがたいという感を深くしたのもこのことと関係がある。というのも、さまざまな音や匂い、光と影など、まったくの屋外とは限らないが、その土地固有の時の移ろいや外気の接近があらわななかでしか、じつはヒトの五感は鋭くされないのではないか。「ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ」(古今和歌集仮名序)は、歌の、詩の、つまり言葉というもののそこから拠ってきたる、ほんとうのことを言えば恐るべき世界の性格を如実に示しているが、それは私が花祭や今回の薪能に臨場したおりの感覚と、無関係なものではないと思う。
 舞台に相対するわれわれの席から見て右手、東の方、社の森ごしにすこし強い、いうなればナイターのナトリウム光程度の照明、というか外灯があると思った。能「高砂」がはじまったあたりのときのことである。シテ方は高橋汎という人だそうで、謡曲はテレビで正月などに何度か、十数年前に、日比谷公園の近くで灯油の臭いのする薪能を見ながら酒を飲んでいたら、いつしか寝入ってしまっていたことが一度、若い頃の花伝書の片齧り、というはなはだお寒い眼力で、それを「鑑賞」するなどまるで出来ないのだけれど、音楽やダンス、言葉好きのいわば裸眼に映じた神曲には、新鮮で崇高な喜ばしさを覚えた。舞台は進み、村瀬純という人が務める神官のワキ方、でも、固有名詞はもう意味がない(これは褒め言葉)その人が、やがて住吉(すみのえ)に船出とてワキツレとともに、「月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や」と、和し高潮するところで、ふと右手上にあるものが気になってそちらの方を仰いだら、ちょうどはるかに高く、鋭いエッジを有した円い月が現実の夜空に懸かっていて、あの繁みごしにぎらぎらしていたナイター照明みたいな光の正体がそれだったことを知った。鎌倉の薪能は六、七年前から十三夜に日程を合わせたらしいが(以前は秋彼岸あたり)、それを考えに入れても、芸能が神事にほかならないことを痛感した瞬間である。
 当然、舞台はなまなかな芸ではつとまるはずもないと思うけれど、ある一線を踰えれば、その技術や芸や人品などはもうどうでもよくて、芸を鑑賞しているのだかヒトの動きをしたなにものかの降臨に酔っているのだかわからなくなる。その酔い心地の如何は、ひとえに芸や技術の洗練に懸かっているのでは、断じてない。問われるべきは思いの深度であり、当然要求されてくる鎌倉薪能のようなレヴェルの高さは高さとして、これを吟醸酒みたいなものだとすれば、花祭や東京板橋の田遊神事等のごときを強烈な濁酒にたとえて、それら相互、けっして優劣や甲乙をつけられたものではないと考える。酒飲みでなくてもわかる話ではないか。芸や技術が、芸や技術それ自体を目的とするものではないことは、科学や芸術や宗教が自分自身を目的とするに至ったときに度しがたい頽廃をはらむことと事情は通じている。この構文に、「人間」の一語を加えてもいいとさえ、私は思う。じっさいこのごろの人間は、自分自身に悪酔いしているように観じられるのは、私のなにか大きな誤解と思いたいけれど。
 話が逸れた。休憩をはさみ、狂言は「宝の槌」で、音楽みたいに殷々とひびくシテやアドのはがねのような所作と声音は、むしろ謡曲よりも舞台を非現実的なものに見せていたが、この感じは、狂言師が呼び起こす客席の現実の哄笑に、別の、もうひとつの高い哄笑が喉歌(ホーミー)のように加わり共鳴して(私には)聞こえたことも、おおいに関係している。くさむらや木の陰や社の裏に存在する、いわば非存在の響動(とよみ)に触れる思いがしたのである。まえの「高砂」やこれや、またつづく「羽衣」など、正月や婚礼などに関係の深い、巍々たる神性を備えた演目を大塔宮に奉納するというのは、まったくいろんなことを考えさせられて、ほとほと感心する。
 例年のことだそうだが、薪能のはてた鎌倉の夜はふるえあがるほど寒い。去年、寂寞のなかでめしを食った人は、ものを寂しむかのごときもうひとつの淡い、なにかヒトならぬ人影めいた幻を身に添わせながら、われわれ飲み助の夫婦を引き連れ、入ったカンバン前の小町の居酒屋で熱燗の大徳利を気ぜわしげに注文した。「ゆかちゃん、熱いの、すぐにね。」

*一文をなすにあたり、日野研一郎氏と平塚恵子氏のご協力を得たことをお断りしておきたい。

ゆぎょう     七号          2003・11月



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