『今帰仁で泣く』の気づき
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『今帰仁で泣く』の気づき



 水島さんの今回の『今帰仁で泣く』はその「あとがき」にもあるけれど、1995年4月の『気のないシャーマン』以来、八年目の詩書上梓ということになる。ちなみに、と言ってはわるいのだけれども、装幀は前著と同じ高專寺赫さんで、おそらくゲラないし原稿を深く読み抜かれたとおぼしい書物の意匠は、前著は前著なり、今著は今著なりの作品世界の推移を、きわめて特徴的に表していると、私などには思えるのである。
 前著におけるシンプルな聖記号のような形象を配しただけの意匠から、今回の種のようなものをくろぐろと抱えながら渦巻きあるいは散りかかるような濃密なデザインへ。それは同時に、ある種の透明さ、静謐さをたたえながら、この現代都市というもののなかに神話の可能性を探っていた前著から、否応なく同時的なものとなった(八年前から比べて!)世界に対する、さらには文明そのものの根幹に対する問いを鋭くさせた、この『今帰仁で泣く』への移行をはっきりと示していると私には感じられるのだ。
 作者の意図であるのかどうかは分からないけれど、『今帰仁で泣く』をずっと見てゆくと、時系列というのでもない、ある筋のようなものが浮かび上がる。というより、この詩集をむしろ後ろのほうから前へ、読み辿ってゆくと、あふれでる奔流のつよさのゆえに、散乱し、ねじれ、砕け散った「知」に属するイメージや語句や概念が、書物を遡行するにつれ、次第に一本の大きな流れに集約されてゆく印象がある。
 やはり、われわれは間違っていたのではないか? その、大きな流れのなかに琴線のようにふるえている感覚を、仮に言ってしまえばこういうことになる。誤解を恐れずに言えば、だ。それは、今帰仁グスクにたたずんで、猛禽類のようなセミの声を浴びている作者の心に穴を開け(今帰仁で泣く)、暗夜に南の海の岩礁に鳴く海鳥の声をまざまざと聞かせる(「光の落葉」を読んで、あるいはプライベートなアーグ)。また、ウイチタの滝まで遡上する鱒となって釣られ(渚の自転車)、狂女の恐ろしいほどの透視とシンパシーの目撃(友だち)、その彼女に同情されたビーという女性が体験した不思議な牧場のサークルと、別の夜に見たユーカリの木のおびただしい光(サークルやユーカリなど)。
 これらは、メタファーや知が行きついた果てに自らを否定するたぐいの、非知や表現の放棄とは違うと思う。言い換えれば人智を超えたものを信仰するのではなく、単純に、人間というものの限界を理性によって知るということだ。科学技術のとどまることのない発展はその極に達した結果、二十世紀末になって、飢えの克服によるさらなる飢え、豊かさへの志向を原因とする絶対的貧困、冷戦の恐怖から解放された結論としての果てしない戦争状態など、文明という名の野蛮さを数限りなくもたらした。三十年前、二十年前、いや十年前とも世界は決定的に異なっているのだ。非知とすれすれのところだが、「自然」を蒙昧と見なさないこと。このことが神話や、その世俗で築かれた伽藍としての(源氏)物語や、作者のルーツとも重なる南西島弧の歌謡が拡げる詩の空間のうちに、静かに気づかれているのではないか。
 作者はその同じことを、別の面から、山尾三省やゲーリー・スナイダーを語ることを通じて、次のように、作品の註のようにして、書いている。

(山尾三省やスナイダーについて)彼らの生き方にすべて共感するというのではない。無機的で、自然のどんな息吹も感じられないと独断している、この身とそれが置かれている環境が、実はなにか大きなネットワークの網目のようなものとしてやはり存在しているのだということに気づかされるのだ。(「光の落葉」を読んで、――)


 そして水島さんは言う。「この気づきは、不愉快ではない。欠如を言い立てられているとも感じない」と。
 もともと水島さんは、抒情の繊細と、柄の大きい長大な説話の語り手のような資質を兼ね備えた人なのだと、私は前々から思っているのだが、彼がノロのように心のウタを謡いだすときでも、抒情の先端はことごとく背後のテクストに接触して、まるでマイダス王の手みたいにすべてを批評が透過したものに変えてしまう。しかし、タイトル詩の「今帰仁で泣く」で、批評が再び巨きく環流してきて、ふかぶかとしたウタが聞こえてくる感があるのは、ある「気づき」を通り抜けてきたそれゆえなのだと私は思う。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と書いたのは、二十世紀の前半を生きた奇妙なユダヤ人哲学者であったが、人間の限界を知ることに気づきはじめたわれわれは、いかにも抒情詩の次のような詩行に、智慧の匂いのようなものを感じはしないか。

 死んだきみも
 生きているわれわれも
 同じように
 忘れ
 忘れ去られる (川の詩人)


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