あまり人のことは言えないのだが、坂井信夫氏の今度の詩集にはどこか「懐かしい」匂いがする。むろん題材は現代的であり、方法意識につらぬかれたきわめて緻密な作品なのだから古臭いという意味ではない。あえて結論から先に語れば、その「現代的」であるということがなにかしら懐かしいのだ。
作品のシチュエーションはあらかじめ作者によって強固に設定されている。男と女がいて(そう若くもない)、部屋がひとつあり、そこに月に一度男と女が会う、という構図である。「会う」という言い方は正確ではないのかもしれない。なぜなら、最初と最後を除くほとんどの場合、どちらかが「長椅子」で眠っていてこれが作品の重要なメタファになっているからだ。そして必ず「現代音楽」が流れ、画集が繰られる。そこでは絶対になにごとも起こらないのだ。男と女が部屋にたどりつくまでに見聞きしてきたこと、かつてあったであろう烈しいドラマの暗示のほかは。
なにごとも起こらないとはいっても、動きへのいくつかのキーのようなものは存在している。まず男が「病院」に入院していてそこから「外泊許可」をもらって「部屋」に通っていること、また女が若くして自殺したアンネ・ラウについて書かれたブランケンブルクの「自明性の喪失」という本を読んでいるということ、対して男のほうは「横田敏雄遺稿歌集」(どうやら坂井氏の虚構らしい)を読んでいること、等である。これらについて共通しているのは、そこには濃厚な「死」の匂いがただよっているということだ。むろん男も女も相手がどうしてそんな本を読んでいるのか「さっぱり分からない」のだが。
作品に出てくるエンドレステープのように断じて劇を含まないまま詩集は進んでゆき、そして次の数行が必然のように露出する。
よごれた窓ガラスのむこうに
雪はたえまなく降りつづけ
男の眠りは さらに深くなり
女は弦音にうながされて立ちあがると
もういちど部屋のなかを見わたした
凍結された物たちと刻・・女はいつしか
そう呟いていた (信号)
ここでいったん詩集はその極北に達するといっていい。「凍結された物たちと刻」。男ではなく、女にそう言わせているところに作者の加齢と成熟を見る・・といったら筆者のような若輩者には傲慢にすぎるであろうか。
じじつ作品はこのあたりからほんとうの意味で動きはじめるので、こんなところにも作者のしたたかな手腕が感じられる。
兆しはすぐ次の作品「隊列」の最後のほうで早くも現れる。眠っている男のかたわらで女が閉めきっていた窓を開けると、雀が飛び立つ。女はここから生きものを見たのは一年ぶりだと思う、という箇所である。
これはほんの小さなサインにすぎないが、その次の作品では少し事情が違ってくる。眠っている男がかけたCDでトムという歌手が(たぶん現代音楽で)くりかえし「イエスの血は決して私を見捨てたことがない」「それは私が知っている一つのこと/彼は私を愛してくださる」と歌っている。女はそれを聴いて「トムはトマス 最初にあの男の傷あとを/見ることなく一週間 はぐれた男」と「へんな連想」をする。そして眠ったまま、男はふいに右手の人差し指を宙に突き出してゆっくりと移動させる。女はそれを見てとっさに「傷あとにむかっているんだな」と思う。(真夏)
ここは詩集のなかでももっとも異様で深い迫力を持った箇所で、作者の秘奥を目のあたりにする思いだが、坂井氏の信仰上の問題もあるのであまり穿鑿はしたくない。
したくはないが、事実上の集中のターニング・ポイントであることだけは言っておきたい。ここに詩集の後半に隠見する、戦争、ホロコースト、革命、原爆といった二十世紀の将来にわたっても鎮静することのない諸テーマにつながる萌芽がひめられているといっても過言ではない。
次の作品(海辺)の最後のほうで、(男は眠っているのだが)新しく白いボードが「部屋」に登場する。女は男がなにかの伝言を求めているのかと考え、しかしまだ「あの日の〈理由〉が甦ってこないかぎり」信号を発するわけにはいかないと思う。
続く「眠剤」では、女がブロバリンを飲み「かなりふかい眠り」に陥っている。男はどうすることもできないと考え、ふと白いボードに眼をやると〈エトウァス〉とだけ記されている。謎を突き付けられて、男は続けざまに煙草を吸うと突然立ち上がり、鳴っているバッハのフーガの旋律に合わせて「奇妙な叫びごえ」をあげる。
「信号」は発せられたのだ(諸般の事情を鑑みるとどうもワルイのは男のほうらしい。いつの時代でも、どんな場合でもそんなものだが・・これは冗談)。
「精霊」では「部屋」で眠っているのは女で、「現代の不幸を認識するための音楽」が流れている。「女の耳は ずっと〈不幸〉を吸いつづけ」その顔はしだいに「オフェリア」に似はじめてゆく。そして唇から歌うような声が洩れてくる。もしかしたら男は女を愛しているのではないかと思わせる場所だ。男が「叫びごえ」を上げるのに対し、女はかすかに歌う。ここで初めてやさしさのようなものの気配が流れるのだ。続く「痙攣」ほか数篇の作品でも女が「歌って」いることは覚えておいてよい。
作品「弦音」で出現する「リゲティの父と弟はガス室で死んだ」という一行は注目に値するが唐突なものではない。男と女の関係がある種の「病」を含むものだとしたら、治癒のためには痛みをともなう切開をほどこさなくてはならず、患部を開いてみたら二十世紀の巨きな痛みが内蔵されていた、という譬えがここではあてはまる。同じ作品の後ろのほうで、リゲティの体験と呼応するかのように「大つぶの涙が窓をぬぐって/こびりついた埃を流してゆく……/男にはそんなふうに雨がみえはじめた」という癒しのことばが発せられるのは偶然ではないだろう。続く「旋律」では男が「部屋」に入ると「なにかが変わったことを」すぐに感じる。緑色のカーテンがかかっていたのだ。女は眠っているが、それはひと仕事終えたあとのここちよい眠りだ。そして必然のように次の数行が書かれる。
アルウォ・ペルトの《アルボス=樹》が
流れつづけていた……そしていま
「私たちはバビロンの河のほとりに坐し、涙した」
という曲にさしかかっている
男は床にすわり
膝をかかえたまま涙をながした
私が集中もっとも胸を打たれた数行である。「樹」と「バビロンの河のほとり」という高度にシンボライズされたイメージが、魂の救抜のなにものかであるのかをわずかなことばで雄弁に語っている。男のなかの氷のようなものがようやく溶けはじめるのだ。次の作品「記録」では、ペンデレツキ(の何者であるのかを筆者は知らないが)の「広島の犠牲に捧げる哀歌」を聴きながら、眠る男をみつめて女も涙を流す(詩集タイトルの「哀歌」はこの曲の題名にも拠るという気がする)。そして死者たちの叫びはこうして表現されたのかと、女は思わず眼を閉じ、しろい地球儀をまわして「ワルシャワ」を探す。詩集冒頭の作品「部屋」で設定された「地球儀」という小道具にはこういう意味があったのかと、深く納得させられる。つまり「地球儀」とは、私たちの巨きな痛みである二十世紀という時代の象徴だと言えるのではないか。
最後の、唯一の未発表作品「鍵盤」では、男が鍵をなくしてしかたなくドアをノックすると、女が出迎える。もはや「死」の譬えともいえる眠りはふたりには存在しない。男にとって女はすでに「おれたち」のうちのひとりなのだ。ふたりは「部屋」に無言のうちに別れを告げる。
『エレジー』と書いてあるその作品に
ふたりの視線は釘づけになった
そのとき男は かつて読んだ逸話を
とつぜん思いだした・・それは
あるチェロ奏者がモーツァルトを弾きながら
「スペインへ行って闘おう」と決心し
涙をながしながら引きつづけたという話だ
そうして男は もう永いこと忘れていた言葉
そう・・希望という単語が
いきなり口をついて出てきそうになった
そのとき男と女は 初めて出会ったかのように
ゆっくり顔をむけあった (鍵盤)
たしかに男と女が愛し合うために、世界苦の問題がホリゾントのようにせりあがってくるということはとても不幸なことなのかもしれない。坂井氏はそれを、ともに闘う相手をお互いのうちに発見する男女という展開で、深い象徴にさせることに成功している。だいたいこの世界に解決や結論などということはありえない。たいていものごとの途中で人は死ぬ。だが最低限言えることは、人の痛みを想像することのできない者に人を愛する資格などないということだ。坂井氏の現代は戦争と革命の時代としての二十世紀である。ポストモダンを標榜する、新しくはあるが退屈な詩人たちのなかにあって、坂井氏の倫理は質実な木の手触りがする。私が坂井氏の「現代」に懐かしい匂いを感じるというのはそういうことを指している。
「漉林」発表 一九九五・一一・二三
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