Jun 24, 2008
眞神博『修室』 2008年7月1日ダニエル社刊
この詩集に流れる底流をひと言で云えば、「厳しさ」だろう。いま私は目下訳業中のカエールの詩の数々を思い起している。心情の厳格、折り目正しさ、心のしつけ、そういった意識の力が日常の生活の中でどのように働いているのかが、19篇の作品のそれぞれのシーンごとに示されている。例えば、集中最も美しい「私たちのオレンジ」では、春の日差しの中で人が受胎という事故を起し、空に私たちのオレンジが高鳴る、という画家キリコ的空間が出現し、また、「私は踏切を渡りたい」では、秋の早朝、踏切りに立つ私の目前で電車の通過という完成された出来事が起き、その日常の大壁の前でたじろぐ私に鳩と飛行機が見え、私は踏切りを渡ろうと一歩踏み出す、という、いずれも普段の暮らしを条件付けられながら、一瞬の意識の刃で、その固まった現実と切結ぶ瞬間をきらりとつかみ取る。そこには比喩や夢想といった文学的手法を持ち込む余裕はもはやなく、豊かさ、潤い、癒し等の心的マッサージも無効。もっと切迫した本質としての闘争が瞬時に行われる。修道士や運動家の修練にさらに厳しい意識の修練が不可欠と思われる。いま、現在、詩の行為が可能であるとすれば、この方法しかないのではないか。そのことを作者は声高ではなく、物静かに具体的に示してみせる。そこに深い共感の理由がある。
Jun 18, 2008
市川慎一『老残教師のマドリッド奮闘記』 2008年5月青山社刊
1957年度入学の早稲田の仏文専修の学生80数名のうちで、仏文学を一生涯やろうと思っていた人はどれだけだったか、あるいは仏文を第一目標にして入学した人はどれだけだったか、演劇や映画、ジャーナリスト、作家志望、かく言うわたくしだって、ほんとうは露文志望だったのだけれど。市川慎一さんは学部時代は仏文一筋に見えた数少ない学生だった。すでにフランス語は熟達していたし、ただ何を専門に選ばれて教授に残られたのかは、後になって知った。18世紀フランス思想ということが、とっさには市川さんと結びつかなかった。ところが、定年を迎えられる数年前になって、フランス文学者市川慎一の全貌がその数冊の出版書籍から明らかに姿を表した。意外な驚きを伴って。以前、慶応の仏文の教授方と研究を共同されているのに新鮮な驚きを覚えたが、全貌はそれにとどまらず、彼の行動範囲はメキシコ、カナダ、スペインへの調査・講演旅行に広がり、そのスペインへの飛翔の部分が今回の大変魅力的な著書になってわたしたちの眼前に繰り広げられた。一言で、老残どころか、若々しいオープンマインドな知的冒険旅行の醍醐味を分け与えてもらえる。若い時代には望めない、落ち着いた、静かに晴れ渡った精神の伸びやかさ。与えられる一方ではない、こちら側から与え得るものを充分蓄積した精神の、惜しみのない広やかさ。だから、読んでいて気持ちがいい。ちぇっ、要領いいな!と思うところもあり、その無邪気さが読んでいる者の気持ちをいたずらっぽくさせる。外国に出て萎縮するどころか、逆に異文化の中で伸び伸びと日本文化に立脚する自己をさらし得る、小気味よいギブアンドテイクの行動力にうならされるのだ。2006年の2月から3月にかけての6週間、スペイン、マドリッドのアウトノマ大学東アジア専門課程日本専門課程客員教授として招聘された公私両面にわたる痛快な活動記録である。講義のテーマは「日本の文学・思想テクストの分析」で、採用されたテクストは福沢諭吉の『福翁自伝』、中村敬宇『西国立志編』、久米邦武『米欧回覧実記』、長谷川如是閑『日本的性格』、ドナルド・キーン『日本文学の歴史』の翻訳論、加藤周一『明治初期の翻訳』、中江兆民『民約訳解』、柳父章『翻訳後成立事情』、大城立裕の3部作『沖縄の命運』、大江健三郎の人と作品、等々と、眼を見張る多彩さ。さらに市川教授は「司馬遼太郎が見た日露戦争」と題する講演までこなしておられるのである。さらにさらに、富子夫人とのバルセロナ、トレド旅行、美術館見学、さまざまなレストランでの地元グルメの夕食、買い物など、目一杯、めまぐるしいほどの、スペイン堪能活躍記でもあるのだ。
Jun 02, 2008
6月曇り空
6月に入った。
ふと立ち止まると、人生という激流を確実に流されていく自分の姿が見える。いくつもの別れを辛酸として舐めつくしながら流されて行くすがた。悲鳴まで。よく、部屋の中で寝ていて、部屋の天井のひと隅に自分の視線があって、寝ている自分を見ている、という話をする人がいるが、わたしには激流にもがいている自分が見える気がする。流れる速度が速まるのは淀みの前かしら?ただぼんやりそのありさまを見ている。