Jun 24, 2008
眞神博『修室』 2008年7月1日ダニエル社刊
この詩集に流れる底流をひと言で云えば、「厳しさ」だろう。いま私は目下訳業中のカエールの詩の数々を思い起している。心情の厳格、折り目正しさ、心のしつけ、そういった意識の力が日常の生活の中でどのように働いているのかが、19篇の作品のそれぞれのシーンごとに示されている。例えば、集中最も美しい「私たちのオレンジ」では、春の日差しの中で人が受胎という事故を起し、空に私たちのオレンジが高鳴る、という画家キリコ的空間が出現し、また、「私は踏切を渡りたい」では、秋の早朝、踏切りに立つ私の目前で電車の通過という完成された出来事が起き、その日常の大壁の前でたじろぐ私に鳩と飛行機が見え、私は踏切りを渡ろうと一歩踏み出す、という、いずれも普段の暮らしを条件付けられながら、一瞬の意識の刃で、その固まった現実と切結ぶ瞬間をきらりとつかみ取る。そこには比喩や夢想といった文学的手法を持ち込む余裕はもはやなく、豊かさ、潤い、癒し等の心的マッサージも無効。もっと切迫した本質としての闘争が瞬時に行われる。修道士や運動家の修練にさらに厳しい意識の修練が不可欠と思われる。いま、現在、詩の行為が可能であるとすれば、この方法しかないのではないか。そのことを作者は声高ではなく、物静かに具体的に示してみせる。そこに深い共感の理由がある。
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