May 28, 2007
草野心平はショパンが似合う?
日曜日いわき市の草野心平文学館へ。館長のフランス文学者粟津則雄氏の朗読を聞くため。ピアノとのコラボレーションで、心平の詩14篇が独特のトーンで読まれた。伴奏の曲はすべてショパン。朗読の声との調和が素晴らしかった。これは選曲とプロデュースが優れている証拠。粟津夫人の画家杜子氏の初めての企画だとのこと。ショパンに「子守歌」というピアノ曲があるのをはじめて知ったが、優しいいい曲だ。詩は、「青イ花」というカタカナで書かれた16行の詩が幼い命の極みが詩的想像力で定着されていて(もちろん子供の蛙になぞらえてある)、胸を打たれた。「オ母サン。ボク。カヘリマセン。…ヘビノ眼ヒカッタ…」。心平の詩はいくどか読んだが、どうもなじめなかった。ショパンと調和した今回は「眼に鱗」だ。この建物は緑滴る岡の上にあり、眺望の素晴らしさは逸品。いわきの自然はなだらかで優しい。山懐の集落。女性のからだのような山の稜線。全面ガラス張りで、自然と建物の関係も優れている。駅から文学館行きのコミュニティバスでも通ればアクセスが解決するが。若葉風心平ショパン祖父と孫 かおる
May 25, 2007
きみもコクリコ
今年は4月の半ばごろから、道のはし、アスファルトの亀裂などにコクリコの朱色の花弁が目立った。小学校の学芸会や運動会で作った鼻紙の花を思い出す、薄い一重の花弁が風に揺れているのは可愛らしい。支える茎もほっそり糸のようで、白を混ぜた緑のぎざぎざの葉っぱも好感が持てる。2、3年前から外を歩く時に気がついてちょっと不思議な気持がしていたが、今年の春は、そののんきな気持が、1種の危機感に取って代わった。その広がり方があまり激しいので。緑色のフェンスに、鮮やかな黄色の蒲公英と混ざって咲き乱れているのを見れば、ルノワールの絵を見ているような気持ちよさもあるのだけれど、何となくブラックバスを思ってしまう。ああ皐月フランスの野は火の色すきみもコクリコわれもコクリコ 与謝野晶子
多摩の野をおほふコクリコ21世紀 かおる(昨年10月の『街』特集号)与謝野晶子と並べるのは恐れ多いが。
いまはもう、種になる時期で、細い茎の先にペン先ほどのしっかりした筒を付けている。割ってみると中にはけし粒(文字通り)ほどの黒い種がぎっしり。その量の多さにジワーッと寒気がしてきた。大人のはしかがはやって、学校が閉鎖されている。ひとの皮膚を覆ったぶつぶつにダブって、薄い目まいがある。
May 24, 2007
だれか食べたひとがいる
今日また件の薮のそばを通りかかって、木苺の黄色い実が見えたので、バスの時間を気にしながらも、ちょっと食べていこうと思って立ち止まり、枝を持ち上げると、なっていたのは1個だけ、元のほうに向かってへただけ並んでいた。へえー、誰か見つけて食べたんだなあ、と、思わず感激。1個はきっちり頂きました。甘酸っぱくておいしい!ごちそうさまです。と、また薮を覗くと、あるある、はぜ、桑、むらさきしきぶ、鼠もち、笹、やぶからし、つげ、水引、つた、しゅろ、柿の木まであった。すごいなーとこれまた感激。1山(薮?)平らにしたら、200坪ぐらいになるかしら。そしたら4軒は建つだろうな、と思うと、こんどは寒気。このままでいつまでいてくれるのだろう、と勝手なお願い。May 16, 2007
薮が好き
駅までの道の端に1箇所だけ残った雑木林。クヌギや楢の雑木の下は薮になっていて。人が入らないように応急の針金が張ってある。だから踏み入ることはできないけど、覗きこむことはできる。一昨日は木苺を見つけてオレンジ色の粟粒のような実を3,4個摘んで食べました。じつは2年前、ここから忍冬を引っこ抜いてきて、フェンスの際に植えた。西側の日当たり抜群の場所なので、今年の春は蔓がどんどん伸びて良く茂り、花もたくさん付けた。今、満開で、夕方雨戸を閉めてしまうのが惜しくて、雨戸1枚分だけガラス戸にしておく。満開といっても、しょせんお里が薮の中だから、洗練された美しさとは言えない。葉ばかり繁りすぎて、なんとなくうっとうしい。薮を覗き込んでちらほらと花を見つけていたときのほうがよかったなと、少し後悔する気持もある。でもでも、いい匂いです。可愛いい花姿です。蚊の声す忍冬の花の散るたびに 蕪村
忍冬と差向かひたる夕餉かな かおる
と、背伸びしてみました。
くだんの薮には、他にも、もうすぐ真っ白く花を付ける野茨や、さるとりいばらや、ガマズミや、 へくそかずら、アオキや、先日覗いたら、楠の子供まで生えていて、まるで宝島。 もう植えるところがないから、抜くのはやめたけど、鳥の声もいつもしてるし、まくなぎまで立っていて、もしまた家を持つようなことでもあれば、こんな薮の庭がいいな。
May 14, 2007
グラマンなのか
昨日の研究会の席題は、母、見、みね(嶺、峯、峰)、花、働。 出句は3句:父の日や働き者の母でありし 1点
五月晴れ峰打ちくらふ視線あり 1点
夏服や新システムの稼働率 2点
びっくりしたのは以下の挨拶句:
有働薫の弾んだ声や夏兆す
飲み会で、Mさんと話した。福岡県の久留米に近い町のご出身で、大正14年生まれ、16歳で徴用工として、佐世保港のドックで軍艦の修理にあたっていた。修理が終った戦艦はそれを守る駆逐艦を従えて艦隊を組んで試運転をした。ノット数は駆逐艦の方が高いのに、しだいに戦艦より遅れていく。なぜかというと、波が荒いと、波の動きに小柄の駆逐艦は乗せられてしまうからだ。昭和19年5月からは工務兵として鹿児島の飛行場(知覧ではない。鹿児島湾の底に位置する隼人という町から1000メートル山に登ったところにある)で爆撃機の整備をされていた。その話から、わたしが6歳の時、終戦の年7月末、疎開先で機銃の攻撃に遭った米軍機は、グラマンという、羽根を切った一人乗りの小型戦闘機だったらしいことが分かった。6歳の私が見たのは確かに一人だった。グラマンは爆撃機(B29)の護衛機で、昭和20年に入ると、毎日、無数に日本の上空に飛来していた。日本の防衛力はその時にはもうゼロに近かった。かろうじて残りの飛行機を鹿児島に集めて、毎日明け方になると、まず、戦闘機(ゼロ戦)を発進させ、その後、爆弾を積んだ爆撃機(彗星)を飛ばした。沖縄を取り囲んでいる米艦までたどりつき、爆弾を命中させるのが目標だった。飛び上っても、上空では米軍機が受信機を使ってキャッチしてすでに待ち構えていた。 Mさんと私の意見の違うところは、わたしが日本の兵隊として負けたらその時点で義務は終るのだから投降して生還を図るべきだと言うのに、それは戦後の考え方で、当時は御盾(みたて)部隊といって、自分の命を救うなど考えもつかなかった。オーム・サリン事件などでも分かるが、平時では考えられない心理状態なのだと反論された。だからこそ負け方のしっかりしたマニュアルを、捕虜になるな、自決しろなどという乱暴なものではなくて、冷静に合理的に生還を図れるように教育しておくべきだろう。また靖国神社については、感情は半々だ、と複雑さを示された。飲み会での話である。