Nov 27, 2006
現代詩60年を語る
25日はジュンク堂書店池袋本店で行われた、城戸朱理さん、和合亮一さん、小笠原鳥類さんによるトークイベント「現代詩60年を語る」に行ってきました。会場は4階にある喫茶店。その狭い空間に40人ほどの聞き手が集い、先鋭的なお三方のお話にじっと耳を傾けていました。城戸朱理さんからは戦後詩60年の、包括的な流れについて語られました。「荒地」から始まり、谷川俊太郎さんなどの新世代への飛翔、そして政治的活動の影響が濃い60年代詩への突入、外国詩の影響など。今更言うのも失礼ですが、城戸さんの豊かな知識と深い考察から紡ぎ出されてくる言葉は、知識の浅い私にはとても新鮮で刺激的でした。またお話の中に、外国の著名な詩人たちが日本の俳句に大きな関心を持っていたということがあり、はっとさせられました。日本人とは別の目で感じ取った俳句の魅力や新鮮さは、改めて私たちが見詰めなおすべきことだろうと思います。
和合亮一さんは司会を兼任しながら、90年代の初頭から詩を書き始めた人間から見た詩の実情をお話されました。和合さんは常に行動する詩人であることから、自然お話はご自身の体験からのことが中心になるので、聞く者には親近感が持ててわかり易く、そのひとつひとつのことに会場は大きくうなづいていました。また面白い経験も豊富に持っていらっしゃって、張り詰めた空気の会場を和ませていました。和合さんは谷川俊太郎の影響から詩作を始め、大学の先生の言葉から吉岡実に傾倒していったとのこと、このあたりは詩を書く者として非常に興味深いものがありました。
小笠原鳥類さんはレジュメを用意し、吉岡実を中心にして、高貝弘也さん、野村喜和夫さん、キキダダマママキキさんの詩の言葉の魅力について語られました。日常で交わされたり著述されたりする言葉とは、同じ言葉でも完全に異質である詩の言葉の力、その煌きや屈折に敏感に反応する小笠原さんの鋭い感受性、そしてその感動を多くの人に伝えたい、感じて欲しいという熱意に満ちた語りでした。また、書店などの一角にある詩集のコーナーに「闇市」の雰囲気を感じるというお話が印象的でした。
一時間半ほどのトークイベント、60年を語るにはあまりに短い時間でありましたが、それでも重要であることがいくつも提示され、観にきた人はみな満足して帰られたのではないでしょうか。
イベントが終わったあとは、例によって打ち上げ。主役のお三方を囲んで、若い方を中心に、かなりの人数が参加されました。私も端っこに参加。
ここで私はとても若い詩のマニアの方とお話することが出来ました。嬉しいことにその方は私のことをご存知でいらして、このブログも時折読んでくださっているとのこと。それどころか、私が現代詩手帖に投稿していたときから知っていたというから相当なマニア、更に現代詩新人賞の最終選考まで残ったということで、詩の腕も確かなものをお持ちです。話していると、とにかく詩が好きだというエネルギーがびんびんと伝わってきて、詩の読者が不在と言われる中にあっても、ちゃんとこういう方がいらっしゃるのだなあと嬉しくなりました。まだ23歳とのことで、このような方が、これからの時代を作り上げていくに違いありません。詩の未来の、具体的な姿を見たような気がしました。
打ち上げは二時間ほどで一端終了し、お店を変えて二次会へ。次の日が日曜日ということもあって、20人ほどの人が夜通しの詩談議を繰り広げました。その大部分が若い方であったことは重要であると思います。20代を中心に30代、40代の詩人たちが活発に意見交換して刺激し合う様子は、詩の現在と未来を感じさせます。詩への情熱を持った若い世代はいま確実に存在し、それぞれに次のことを考えています。とにかく凄いエネルギー。全くテンションが衰えることなく朝を迎え、私は5時半ぐらいにお暇したのですが、その後もまだまだ詩談議は続いたようでした。参加された方々、どなた様もお疲れ様でした!
Nov 22, 2006
PSP合評会。
先日の日曜日はPSP合評会でした。参加者12人という、この会にしては大人数での合評、また初めて参加される方もいらっしゃって、
なかなか熱い意見が飛び交いました。
面白かったのは竹内敏喜さんの作品。
印象的な引用文を三つ並べ、その後に自作を持ってきて一つの詩として完成させるコラージュ的な作品で、
変わったやり方ではありますが、その並べられた引用文というのが、相互関係がないように見えて、
しかしなんらかの関連性を予感させるものであり、
この手法のメリットを最大限に生かしているものだと感じました。
手法というものは、表現したいものが先にあってから選ばれるべきだと思いますが、
この作品はまさに題材に手法が選ばれた感があり、変則的と見える手法でも、
実に自然に鑑賞することができました。
ここらへん、私にとっては収穫でした。
北見俊一さんの作品も、とても楽しめました。
中世のお嬢様のような文体で書かれたこの詩は、あちこちに別の意味が隠されているような、
そんな不思議な魅力を持っていました。
勘ぐる内に、勝手にこっちでいろいろ想像を膨らませてしまったりして、しかしそんなことも、
詩を読む楽しみのひとつだと思います。
北見さんもまた、あるひとつの感情を表現するために、自由に、また的確に表現手法を選んで、
詩を書いていらっしゃます。
今回の作品も、読者をいろいろ惑わしながらも、北見さんが表現したかったものは、
読み手へしっかりと伝わっていたと思います。
ところで私の作品はというと、またもや厳しい意見に曝されてしまったのですが、
痛感したのは、ひとつの言葉を選ぶ重要性です。
頂いた意見の多くが、細かな言葉遣いに関するものでした。
自分ではいいと思った語句も、人から見れば違った印象を持たれたり、作為の跡が見え見えだったり、
軽い気持ちで使った言葉から、そのいい加減さが見透かされてしまったり、
たったひとつの言葉を間違えただけで読む者を混乱させてしまったりと、
今更ながら言葉選びの大切さを思いました。
このことは詩を書く限り、永遠の課題とすべきところでしょう。
このように、自分だけでは気付けない部分をばっちり指摘してもらえるのは、
合評会の有意義なところ。
遠慮せずに意見を言ってくれるひとはありがたい存在です。
今回は、今村純子さんが初めて合評会に参加してくださいました。
今村さんは、以前に合評会に参加してくださった大谷良太さんのご友人です。
芸術哲学、芸術倫理学がご専門であるそうで、ご自身で詩を書かれることはないそうですが、
詩人に興味があるということで、参加してくださいました。
「詩を読む人」と「詩を書く人」がイコールに近いという現状においては、
「詩を書かない人」の意見というのは非常に貴重で、大切なものではないでしょうか。
是非またご参加いただいて、たくさん意見を言っていただきたいところです。
Nov 18, 2006
レビューが続きましたので、
今日はちょっと雑談を。私は何年か前、自分はどうやら物語の結末というものに興味がないようだと気がつきました。
小説や映画など物語と呼ばれるものに昔から多く接して来て、それは現在も続いていますが、
考えてみれば、どれを鑑賞している最中にも「どうしてもこの話の結末を知りたい」という欲求には、
本当のところ駆られたことは殆どなく、だからつまらなければ途中で鑑賞をやめることに、
それほど未練を感じません。
お金を払っていますから、一応映画なんかは最後まで観ますけど。
今は全くやりませんが、随分前にはテレビゲームなどをしていたこともあり、
「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」といったロールプレイングゲームなどもやって
みましたが、その中の幾つかのエンディングを私は見ていません。
クリアできなかったのではなく「この敵を倒したら間違いなくエンディング」という所まで到達すると、
急に興味を失って、ゲームを放り出してしまうのです。
結末を見たくないというより興味がもてず、その為に苦労して強い敵を倒す気になれなかったのです。
今から思えば、私がゲームの中で一生懸命敵を倒していたのは、ゲームの続きを見たいからであって、
結末にたどり着くためではなかったのでしょう。
どうやら私の興味は物語自体にはなく、物語の持つ雰囲気や世界観などにあるようです。
そういうものに浸りながら、流れを追っていくのが好きなんですね。
だから、そういうものさえ魅力的であれば、結末がどんなにしょぼかろうと、私には面白い作品です。
私の好きな映画や小説などを思い返してみると、その雰囲気や世界観に惹かれたものばかりですし、
中には正直どんな結末だったのか思い出せないものもあります。
好きな映画のビデオを引っ張り出して観てみたら、結末の直前でちょん切れていたとしても、
私はそれほどショックを受けないでしょう。
話の展開の面白さに惹かれることはあります。
まずなにが起こって、その次に何が起こって、それが連鎖してこんなことになって、のような事は、
そのスピード感や転がっていく方向などをディテールとして捉えられて楽しめます。
その延長線上に結末があるのであれば、それはディテールとしてどんな結末になるか楽しみです。
しかしそういう作品の場合、一度の鑑賞は楽しめても、雰囲気や世界観に強く惹かれていなければ、
もう一度その流れに身を任せたいとは思いません。
私がその作品に惹かれるかどうかの基準は、あくまで雰囲気や世界観によるものであって、
物語性によるものではないようです。
詩という形態には、ストーリー性や結末などは必ずしも必要とされません。
ある程度以上の展開を持たず、物語に義務付けられるような結末も持たない場合が多いです。
そういう作品は、大多数の人が読みにくいと感じるのではないでしょうか。
詩は物語の一種であるという意識が働いてしまっていると、
物語に必要な最低条件を満たしていない詩は未完成品であるように見えて、
つまらないもの、取るに足らないものと判断されてしまいます。
しかし詩の魅力というのは、当然のことながら物語の巧みさではなく、
その詩自体が持つ生の力であり、そこから噴出される雰囲気やディテールです。
それさえあれば、その詩はひとつの優れた「作品」として、まずは存在出来るはずです。
ただ難儀であるのは、物語の巧みさは、たくさん勉強すれば得られるものかもしれませんが、
優れた詩を書けるか否かは、ある程度の天性に寄ったり、偶然性が大きく関わっているということです。
だからこそ、魅力的な詩というものは、発表される詩全体の数に対して、非常に少ないのでしょう。
私のように物語性を求めないような者でも、惹き込まれる詩集にはなかなか出会えません。
一篇の優れた詩は、ある種の奇跡とすら言えそうです。
また、読む者を詩の魅力にまで引き連れてくるには、「詩は物語の一種ではない」ということを、
一瞬にして読むものに知らしめなくてはならず、その為には最初の数行で、
「これは物語とは全く別のものだ」と直感させるような凄い詩句が必要となります。
しかしそんな口で言うほど簡単に事が済めば、誰も苦労なんかしませんね。
と言うか考えれば考えるほど、やはり優れた詩は難しいというより奇跡以外の何ものでもないようで・・・。
Nov 14, 2006
入道雲入道雲入道雲
和合亮一さんの新詩集「入道雲入道雲入道雲」(思潮社)を読みました。一年前に刊行された前作「地球頭脳詩篇」が第47回晩翠賞を受賞し、
その興奮も冷めやらぬうちの刊行です。
第五詩集。
白い装丁にタイトルが筆で書き叩かれたこの詩集の内容は、
「入道雲」、「入道雲入道雲」という二つの長編詩からなっています。
開いてみると、最初のページからいきなり言葉が中空を疾走し始め、
読み手を引っ張るというよりも、駆け抜ける勢いで詩句が放られていきます。
詩の中にドゥカティというバイクの名前が出てくることもありますが、
この疾走感はバイクに似ています。
詩人はバイクを駆って、故郷の風景とそこで暮らしてきたことの記憶、
そして白々しい情報が飛び交う現在を縦横無尽に駆け抜け、
その光跡がそのまま詩へと変換されていくようです。
詩人和合亮一の住む世界は詩句で満ち溢れた世界なのでしょうか。
散りばめられた言葉は詩人自身のものでありながら、
詩人の三十八年の人生を外側から包括的に見つめる目ともなり、
いきおい詩人の生まれる以前と死後にまで広がっていきます。
このようにスケールの大きな作品であるにも拘らず、読み手を高みから見下すのではなく、
常に寄り添うような言葉使いで誘うあたりも、和合さんの詩の魅力のひとつでしょう。
後半の「入道雲入道雲」に入ると、テーマは変わらずとも詩人の立ち位置が大きく変わります。
疾走していた前半「入道雲」とは打って変わって、故郷の自然と丸ごと同化するように一所に留まり、
声を大きくしたり小さくしたり、また膨らませたり縮まらせたりしながら、
ずぶずぶと深く沈んでいくことによって故郷を見つめていきます。
そうして故郷と自分とを行き来しながら、究極なほど自由に言葉を繰り出して行きますが、
それでも支離滅裂になることなく一貫し、緊張感を持続しているのは、
詩人が自己というものを明確に捉えているからであり、
それが出来て初めて自由が得られるのだという基本的なことをも感じさせられます。
和合さんの言葉は、普通一般には通じないような奇妙な言葉です。
ですから詩篇の一部を抜き出してみても、よく意味がつかめないものが多いのですが、
しかし和合さんの詩が持つスピードや流れなどと共に受け入れると、
不思議とその言葉たちが発する感情がテレパシーのように伝わってきます。
疾走感もまた詩の一部であり、和合さんの詩篇の成立に不可欠なものです。
詩の手法について言えば、行に激しい高低差をつけたり字体を変化させたりと、
躍動的なものが目立ちますが、このいかにも現代詩的な手法は、
使う人によっては手法に自己が食われてしまって、外見はいかにも過激に見えながらも、
実は中身は意外と凡庸な詩になってしまっていたりするものも多いようです。
しかし和合さんはこの手法も自分の世界にまで充分に引き込み、
押さえ込んで利用してしまっているあたり、詩人としての揺るぎない地力を感じます。
装丁、手法のほか、パフォーマンスなどにも、様々に新しい試みを打ち出す和合さんですが、
その原動力になっているのは、小手先や思いつきではなく、
紛れもなく和合さんが弾き出す詩篇そのものの力であり、
それが否応なしに詩の周囲を刷新させていくのでしょう。
このような確かなベクトルを持つ詩人は、歴史的に見ても稀有なのではないでしょうか。
現代詩のシーンというものがあるのなら、それを動かしているものの一つは、
確かにこの人に渦巻いている力です。
前作の「地球頭脳詩篇」もいいですが、個人的にはこの「入道雲入道雲入道雲」の方が好きです。
それなりにボリュームのある本ではありますが、ほぼ一気に読み干してしまいました。
しかし明確な個性を持つ詩人の作品は、あんまり繰り返し読むと影響されてしまいそうで怖いですね。
ほどほどにしておきましょう。
Nov 10, 2006
流離縁起
薦田愛さんの新詩集「流離縁起」(ふらんす堂)を読みました。この詩集の装丁は深い緑色ですが、内容もまた非常に濃密で深く、
一篇一篇読むごとに感じられる手応えは半端ではありません。
これを一回で全篇読み通すことが出来る人は、なかなかいないのではないでしょうか。
もちろんこれは読みづらいということではなく、寧ろ読みやすいのですが、
その分こちらに流れ込んで来る情報量はとてつもないもので、
受け止める側にもなかなか体力が要求されます。
薦田さんの描く、現実から一歩大きく踏み外したような詩の世界は、
日常をそつなく生活する人の顔の裏面に貼り付いたもうひとつの顔が発する言葉や情感のようです。
その顔は、現実とは似ても似つかない、悪夢のように歪んだ出来事を淡々と語り、
それと対峙する詩人の感情や行動は、
現実の生活によって、あるいは生まれつきに歪んだ形になってしまっている心を、
正常な形に戻そうとする行為であるようです。
しかし読むうち、心とは寧ろ歪んだ形であることが普通であり、
その歪み加減こそがその人らしさを表していて、
それでも本来の形へと戻そうとする原初的な意志や行為が、
生きるということなのかもしれないと思い当たりました。
そんな薦田さんより発せられる詩の言葉に沿っていくと、異形な世界であるにも拘らず、
なにかニアミスのように、突然に詩人の感覚に親近感を覚えたりします。
いつかどこかで自分も同じ感覚を持ったことがあるような。
そんな気がするのは、優れた筆力によるところもありますが、
恐らくは薦田さんの言葉の一つ一つが、異常なまでに強く匂いたっているからではと思います。
その匂いは生い茂った草むらのようでもあり、またなにかに固執する女性の体臭のようでもあります。
するとこれらの言葉は頭で考えられたものというより、肉体によって得られた感触そのものであり、
だからその匂いを吸い込むと、言葉の表面よりも奥にある、深い部分を感じられるのではと思います。
言葉を通じて、頭から頭ではなく、肉体的にその感覚を伝えるのが、薦田さんの言葉であるようです。
詩集の最後に収められている「石積み」の連作は圧巻です。
幼少時に亡くなった姉が好きだった花を摘む老婆が、一緒に花を摘む孫へとかける柔らかい言葉。
しかし老婆の、長い時間が蓄積されたその内部よりこぼれ落ちるが如く発せられる言葉には、
何気なくありながらも深い沈思の海が見えます。
詩人は内側の顔で、その海に立つ波や渦潮の様子を静かに語っていきます。
やがて言葉は老婆の独白となり、その中でここにはいない姉の姿が再生して揺らめき、
老婆との繋がりの匂いを再び立ち上らせていきます。
人生が閉じていく時間の中で、経てきた長い時間が一点に集約されていく過程に結晶する大切なこと、
詩人は見事にそれを言葉に変えて、読み手へと提示します。
とにかくこの詩集はずっしりと手応えのある詩集ですので、
じっくりと長い時間をかけてひとつの世界に浸りたい方にお薦めです。
Nov 06, 2006
オルペウス オルペウス
思潮社から刊行中のシリーズ「新しい詩人」の中の一冊、斉藤倫さんの第二詩集「オルペウス オルペウス」を読みました。
斉藤さんは、とても優しく親近感の持てる作品を書く方です。
第一詩集の「手をふる 手をふる」(あざみ書房)も、読みながらだんだん心が柔らかくなっていくような、
白い綿のような感触を持つ詩集でした。
今回の詩集はその特徴を受け継ぎながらも、連作長篇詩という形に挑戦されています。
タイトルになっているオルペウスは、ギリシャ神話に登場する吟遊詩人の名前であり、
悲劇的な運命を持つキャラクターですが、この詩集に現われるオルペウスは、
斉藤さんの中に住んでいる、あるいは誰の中にも住んでいる小さな友人のようです。
普通の街で普通に暮らして、普通に悩みや葛藤などと戦っている普通の人。
そんな人の中にこっそり潜んでいる勇敢な吟遊詩人オルペウスは、人がなんらかの現実、
恋や人間関係の摩擦などとぶつかった時、突然現われ、詩人の目で現実に対峙し言葉を発します。
その言葉は、現実に振り飛ばされてしまいそうになった自己を支え、
しっかりと両足で立たせる役割を担っています。
斉藤さんとオルペウスの共同作業のようにして書かれた作品群は、ユーモアにあふれていて、
現実に打ちのめされたときに泣いていたって仕方がない、洒落のめして前に進むしかない、
と言っているようです。
オルペウスは、普通の人の現実において詩を発しますが、
やがて何を思ったのか、ふと自分の物語を語り始めたりします。
オルペウスと関係の深い者たちの名前を交えて、ギリシャ神話にある出来事を語るのですが、
斉藤さんの手を借りたそれは、確かにギリシャ神話なのですが、
なんだか宮沢賢治の童話のように親近感があります。
キャラクターも神話の登場人物というよりも、かにとか、さるとか、いぬとか、
日本むかしばなしに出てくるどうぶつたちといった風情。
しかし根底にある痛みや苦しみといったものはそのまま流れ続け、
いま現実と対峙する普通の人の内面へと流れつきます。
人は痛みに叫び、死を見詰めすらしますが、それを表すオルペウス(斉藤さん)の言葉は、
やはり白く柔らかいもので、そんな詩が流れる中、また人は普通の日常へと帰っていくのです。
この詩集を読んでいると、普段見慣れた日常の雑踏をいく人々の風景が、
きれぎれのオルペウスの言葉に満ちているように感じられてきます。
みんなそれぞれいろいろな悩みを抱えているけれども、
ひとの中に普遍的に存在するオルペウス的存在と手を取りあいながら、
なんとか生きているのだなあと思います。
自分を含めて。
というわけで、この詩集「オルペウス オルペウス」は、
いわゆるゲンダイシというのが苦手な方にお薦めです。
しかしもちろん薄っぺらいものではなく、
柔らかい言葉が心に何処までも何処までも染み込んでいく詩集です。
Nov 02, 2006
11月!!
ということで、現代詩手帖11月号を購入しました。特集は谷川俊太郎の詩論。
詩の森文庫での詩論三部作完結に合わせた特集で、谷川氏と四元康祐さんによる対談、
それに著名な詩人さんなどがエッセイを寄せています。
そして今号では「現代詩新人賞」が発表になっています。
受賞作品は中尾太一さんの「ファルコン、君と二人で写った写真を僕は今日もってきた」。
中尾さんのお名前も作品も初めて目にしました。
掲載された受賞作を読むと横書きを多用した大作であり、
私には詩人の過去を叙情的に物語っていく作品と読めました。
詩的な長篇小説から最も詩的な部分だけを抽出してまとめた作品のようでもありますが、
表現したいことの焦点がはっきりとしている所為か、そのエッセンスは地下水のように澄んでおり、
この方はこの先、既成の詩の概念から一歩はずれた、唯一無比のやり方で自己の世界を広げていく
予感がします。
選評によると、個人で造本されたものが送られてきたとのこと。
あるいはその形で読むと、誌上で読むのとは、また違った魅力があるのかもしれません。
今月号をパラパラとめくっていて一番心惹かれたのは、「<クレオール>な詩人たち」で取り上げられて
いるカリブ海の島セントルシア出身の詩人デレック・ウォルコット。
ノーベル賞を取っているすごい人ですが、その作風は、奴隷制度の過去や貧困といった重いテーマを
取り上げながらも、ユーモアと明るさを持ったものです。
細かい名詞や事情などは注釈に頼らざるを得ませんが、わからないままでもぐいぐいと読まされます。
氏の特集は前号に引き続いてのものであり、今号に掲載された長編詩は、詩というより寧ろ
物語性の強いものですが、行間の向こうを覗いてみると、太陽とそれを反射する海の煌きが見通せ、
それにヘミングウェイとかマルケスとか、南米の作家たちの文章が持っているあの匂いが薫ってきて、
単純ですが、ああ南米っぽい、カリブ海っぽいなあと思います。
こういう、自分が生まれ育ったところとは何もかも違う雰囲気というのは、
どうしても惹き付けられてしまいます。
表されるニュアンスのひとつひとつが興味深く、特に彼らが肌で感じてきたことから滲み出てくる言葉の
様子、ものごとの受け止め方など、恐らくは実際の十分の一も理解できていないであろうけれども、
なんか、かっぱえびせんのように、やめられずに次から次へと読んでしまいます。
是非まとめて読んでみたいところですが、残念ながらウォルコットの詩集は絶版の様子…。
古本屋を回ってみるしかないようです。