Nov 14, 2006
入道雲入道雲入道雲
和合亮一さんの新詩集「入道雲入道雲入道雲」(思潮社)を読みました。一年前に刊行された前作「地球頭脳詩篇」が第47回晩翠賞を受賞し、
その興奮も冷めやらぬうちの刊行です。
第五詩集。
白い装丁にタイトルが筆で書き叩かれたこの詩集の内容は、
「入道雲」、「入道雲入道雲」という二つの長編詩からなっています。
開いてみると、最初のページからいきなり言葉が中空を疾走し始め、
読み手を引っ張るというよりも、駆け抜ける勢いで詩句が放られていきます。
詩の中にドゥカティというバイクの名前が出てくることもありますが、
この疾走感はバイクに似ています。
詩人はバイクを駆って、故郷の風景とそこで暮らしてきたことの記憶、
そして白々しい情報が飛び交う現在を縦横無尽に駆け抜け、
その光跡がそのまま詩へと変換されていくようです。
詩人和合亮一の住む世界は詩句で満ち溢れた世界なのでしょうか。
散りばめられた言葉は詩人自身のものでありながら、
詩人の三十八年の人生を外側から包括的に見つめる目ともなり、
いきおい詩人の生まれる以前と死後にまで広がっていきます。
このようにスケールの大きな作品であるにも拘らず、読み手を高みから見下すのではなく、
常に寄り添うような言葉使いで誘うあたりも、和合さんの詩の魅力のひとつでしょう。
後半の「入道雲入道雲」に入ると、テーマは変わらずとも詩人の立ち位置が大きく変わります。
疾走していた前半「入道雲」とは打って変わって、故郷の自然と丸ごと同化するように一所に留まり、
声を大きくしたり小さくしたり、また膨らませたり縮まらせたりしながら、
ずぶずぶと深く沈んでいくことによって故郷を見つめていきます。
そうして故郷と自分とを行き来しながら、究極なほど自由に言葉を繰り出して行きますが、
それでも支離滅裂になることなく一貫し、緊張感を持続しているのは、
詩人が自己というものを明確に捉えているからであり、
それが出来て初めて自由が得られるのだという基本的なことをも感じさせられます。
和合さんの言葉は、普通一般には通じないような奇妙な言葉です。
ですから詩篇の一部を抜き出してみても、よく意味がつかめないものが多いのですが、
しかし和合さんの詩が持つスピードや流れなどと共に受け入れると、
不思議とその言葉たちが発する感情がテレパシーのように伝わってきます。
疾走感もまた詩の一部であり、和合さんの詩篇の成立に不可欠なものです。
詩の手法について言えば、行に激しい高低差をつけたり字体を変化させたりと、
躍動的なものが目立ちますが、このいかにも現代詩的な手法は、
使う人によっては手法に自己が食われてしまって、外見はいかにも過激に見えながらも、
実は中身は意外と凡庸な詩になってしまっていたりするものも多いようです。
しかし和合さんはこの手法も自分の世界にまで充分に引き込み、
押さえ込んで利用してしまっているあたり、詩人としての揺るぎない地力を感じます。
装丁、手法のほか、パフォーマンスなどにも、様々に新しい試みを打ち出す和合さんですが、
その原動力になっているのは、小手先や思いつきではなく、
紛れもなく和合さんが弾き出す詩篇そのものの力であり、
それが否応なしに詩の周囲を刷新させていくのでしょう。
このような確かなベクトルを持つ詩人は、歴史的に見ても稀有なのではないでしょうか。
現代詩のシーンというものがあるのなら、それを動かしているものの一つは、
確かにこの人に渦巻いている力です。
前作の「地球頭脳詩篇」もいいですが、個人的にはこの「入道雲入道雲入道雲」の方が好きです。
それなりにボリュームのある本ではありますが、ほぼ一気に読み干してしまいました。
しかし明確な個性を持つ詩人の作品は、あんまり繰り返し読むと影響されてしまいそうで怖いですね。
ほどほどにしておきましょう。
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