Nov 10, 2006
流離縁起
薦田愛さんの新詩集「流離縁起」(ふらんす堂)を読みました。この詩集の装丁は深い緑色ですが、内容もまた非常に濃密で深く、
一篇一篇読むごとに感じられる手応えは半端ではありません。
これを一回で全篇読み通すことが出来る人は、なかなかいないのではないでしょうか。
もちろんこれは読みづらいということではなく、寧ろ読みやすいのですが、
その分こちらに流れ込んで来る情報量はとてつもないもので、
受け止める側にもなかなか体力が要求されます。
薦田さんの描く、現実から一歩大きく踏み外したような詩の世界は、
日常をそつなく生活する人の顔の裏面に貼り付いたもうひとつの顔が発する言葉や情感のようです。
その顔は、現実とは似ても似つかない、悪夢のように歪んだ出来事を淡々と語り、
それと対峙する詩人の感情や行動は、
現実の生活によって、あるいは生まれつきに歪んだ形になってしまっている心を、
正常な形に戻そうとする行為であるようです。
しかし読むうち、心とは寧ろ歪んだ形であることが普通であり、
その歪み加減こそがその人らしさを表していて、
それでも本来の形へと戻そうとする原初的な意志や行為が、
生きるということなのかもしれないと思い当たりました。
そんな薦田さんより発せられる詩の言葉に沿っていくと、異形な世界であるにも拘らず、
なにかニアミスのように、突然に詩人の感覚に親近感を覚えたりします。
いつかどこかで自分も同じ感覚を持ったことがあるような。
そんな気がするのは、優れた筆力によるところもありますが、
恐らくは薦田さんの言葉の一つ一つが、異常なまでに強く匂いたっているからではと思います。
その匂いは生い茂った草むらのようでもあり、またなにかに固執する女性の体臭のようでもあります。
するとこれらの言葉は頭で考えられたものというより、肉体によって得られた感触そのものであり、
だからその匂いを吸い込むと、言葉の表面よりも奥にある、深い部分を感じられるのではと思います。
言葉を通じて、頭から頭ではなく、肉体的にその感覚を伝えるのが、薦田さんの言葉であるようです。
詩集の最後に収められている「石積み」の連作は圧巻です。
幼少時に亡くなった姉が好きだった花を摘む老婆が、一緒に花を摘む孫へとかける柔らかい言葉。
しかし老婆の、長い時間が蓄積されたその内部よりこぼれ落ちるが如く発せられる言葉には、
何気なくありながらも深い沈思の海が見えます。
詩人は内側の顔で、その海に立つ波や渦潮の様子を静かに語っていきます。
やがて言葉は老婆の独白となり、その中でここにはいない姉の姿が再生して揺らめき、
老婆との繋がりの匂いを再び立ち上らせていきます。
人生が閉じていく時間の中で、経てきた長い時間が一点に集約されていく過程に結晶する大切なこと、
詩人は見事にそれを言葉に変えて、読み手へと提示します。
とにかくこの詩集はずっしりと手応えのある詩集ですので、
じっくりと長い時間をかけてひとつの世界に浸りたい方にお薦めです。
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