Apr 28, 2006
書くほどのことではないのですが、
嘘になってしまってはいけないので一応。前回のブログで書いた、
和合さんの原作による劇団遊戯空間の公演、
私は29日の夜の部に伺おうと思っていたのですが、
なんでも和合さんは夜の部の開演後には、
仕事の都合で帰ってしまうそうなので、
昼の部に伺うことにしました。
ですので和合さんと直接お話してみたい方は、
28日の夜の部か(既に今日ですが)、29日の昼の部に行くのがお薦めです。
(詳細は前回のブログを見てください)
気さくな方ですので、話しかければ誰でも丁寧に応えてくれるはずです。
前回は詩集の即売会もありましたので、今回も恐らくあると思います。
サインもきっと快くしてくれますよ。
Apr 26, 2006
ちょっくら宣伝。
と言っても私のことではないのですが・・・。4月28日(金)~5月1日(月)まで、
詩人和合亮一さんの詩集「地球頭脳詩篇」を原作とした、劇団遊戯空間による舞台、
詩×劇「世界が脳になってしまったので少年は左に回らない」が行われます。
場所はJR四谷駅から徒歩約7分のところにある「コア石響」にて。
時間は午後2時からと午後7時からの一日二回公演(28日は午後7時からのみ)です。
チケットは3000円(日時指定・全席自由)
詳しくは遊戯空間ホームページ(http://y.fantasia.to/)にてご確認ください。
コア石響:新宿区若葉1-22-16、TEL03-3355-5554
開場は開演の30分前、定員は各回70名、
29日の昼の部のあとには、和合亮一×篠本賢一でのトークショーが開かれるそうです。
興味のある方は、是非足を運んでみてください。
ちなみに私は29日の夜の部にでも伺ってみようかなと思っています。
Apr 25, 2006
最近、書く詩が長くなってきました。
以前は40行以下で収まっていたのが、ここ数ヶ月は、60行でも収まらないものばかり。
行数もさることながら、一行の長さも長くなっています。
普通は10文字以下で連ねていくところが、
30文字ぐらいになることもあります。
別に詩は短くても長くても構わないと思いますが、
ものには振り幅というものがあって、
片方に寄ったあとは、もう片方にも寄らないと、
バランスがとれなくなるような気がします。
ということで、ここ数日はちょっと短い詩など書いています。
私は詩を書くとき、
初めに「こういう詩を書こう」ということを考えません。
何かの拍子にある印象を受けて、
それによって最初の1,2行がふと思いついたら、
あとはそのときの気分で気ままに言葉を書き連ねます。
すると書いていくうちに、
自分が普段感じていることや考えていることがぼろぼろと溢れてきて、
それがとても気持ちよく、夢中になることが出来ます。
このやり方でないと、私は自分の中身を外に出すことが出来ません。
喋ることがうまくなく、整った文章も書けない私は、
こうすることによって精神的な便秘を治しているのかもしれません。
根が飽きっぽいこともあって、一気に書くだけ書いてしまったら、
あとは放り出してしまいます。
そしてしばらく経ってから、結構時間をかけて推敲します。
私にとって推敲の目的とは、
自分が一気に吐き出したものが存在できるために、
一番いい形を探り出すことです。
同じように4,50行書き殴ったものでも、
それより長くしたほうがいい場合もあれば、ぐっと短くした方がいい場合もあります。
連を細かく分ける方が、意味合いがより明確になる場合もありますし、
全く連分けをしない方がいい場合もあります。
一番重要だと思っていた3行を削ったらいきなり完成した、ということもあります。
というように、気ままに吐き出した自分の部分部分によって、
存在するために最適な形は異なっているようです。
それを探し出す作業は、しんどくもあり、また楽しくもあります。
最近詩が長くなっていたのは、
長い形が最適なものを自然と吐き出していたのでしょう。
改めて完成済みの詩を眺めてみても、どうにも縮まりようがないものばかりです。
逆にここ数日書き殴った詩をいじくってみると、
大幅に削れて10行ほどのこじんまりとした形になったりしています。
本人が意識していないところで、
勝手に内側で振り幅を調節していたのでしょうか。
すこし不思議な気がします。
Apr 21, 2006
雨は降るわ風は吹くわ午後から晴れるわで、
天気のごった煮のような一日でした。そんな今日は小網恵子さんの詩集「浅い緑、深い緑」(水仁舎)について。
奥付をみると四月二十二日発行、出来立てほやほやをいただきました。
小網さんの描かれる世界は、日常の手触りがある文章であるのに、
夢の中を泳ぐような感覚があります。
いい夢でも悪い夢でもなく、しかし深い不安が立ち込めていて、
読んでいる方は、同じ感覚をどこかで味わったことがあるような気になり、
思わず目を見張ってしまいます。
日常にふと現れた破れ目から、するすると不条理な出来事や心理が連なっていく様子は、
わざとらしくも不自然でもなく、鮮やかに著述され、
するとありえない出来事でも、そういうこともあるだろうなあなんてぼんやり思いつつ、
歩調を変えずについていけてしまう、そんな不思議な魅力をもつリズムが、
小網さんの作品にはあります。
どの詩も、はっきりとした到達点を目指すものではありませんが、
しかし意味のない出来事の連なりにしか思えない夢にも、実は何らかの意味があるように、
全ての篇に押し隠された意味が実在することを感じます。
それは読み込んでいけば解けるというものではなく、
いつか何処かの瞬間に、あ、これか…、と気付くような感覚です。
このような作風ですから、当然フィクションの部分は多いのですが、
しかしだからといってそこに真実がないわけではありません。
フィクションを描くことによって、事実を描くよりも寧ろ真実に近づくことを、
人は随分昔からしてきているのですし、
小網さんの詩の中にも、フィクションはあっても嘘はないと思います。
私が小網さんの詩に惹かれる部分のひとつに、登場人物があります。
自分自身のほかに、他者が出てくる作品が幾つかあるのですが、
私はその人たちに顔を感じません。
印象としては、やはり夢の中で出会った人物、という気がするのですが、
しかし夢と違うのは、顔を感じなくても体臭を感じるということです。
体臭とはある意味、人間の存在を顔よりも強く感じさせるものだと思います。
それが巧みに描かれていることにより、作中のどんな不条理な出来事や行動も、
人間の所業として納得され、またそのまま現実の世界に目を向けても、
人間はどんな不条理もやってのけてしまうものであることを感じさせられます。
更にもうひとつ、小網さんの作品にはタイトル通り緑が多く登場します。
その緑は大自然の緑ではなく、人の生活のすぐ傍にある緑です。
不自然な形で人間の傍に連れてこられている緑であるにもかかわらず、
その緑はとてもとても深い色をしています。
その深さは、人間の目と心を通した深さ、
あるいは人間の内から流れ出し混ざり合って成された深さのように思えます。
この業のような緑色に敢然と立ち向かって生活する、それが作者にとって、
生きること、であるように感じます。
そして得られたものは、女性の強さにも似た生命の濃さです。
性別で詩を判断することを必要以上にするべきではないと思いますが、
やはりこの作品集は、男性には決して書けない生命の形だと思うのです。
先日の柿沼さんの詩集に続いて、素晴らしい詩集を読むことが出来ました。
水仁舎のホームページで出来上がる過程を見ながら、わくわくして待った詩集でしたが、
美しい装丁にふさわしい内容の作品集で、待った甲斐があったと言うものです。
さて、私も負けずに頑張らなくては・・・。
Apr 18, 2006
昨日は恒例の合評会。
最近ゲストの方がいらっしゃったりして賑やかだった合評会ですが、今回は比較的少人数でこじんまりと行われました。
作品を拝読していくと、
それぞれの方がそれぞれに自分の持っている方向性を推し進めようとされています。
完成度が非常に高まっているのを見ると同時に、
苦しんでいる様子が滲み出ているものもあり、
いまさらながら、みんな真剣に自分の詩と向き合っているのだなと思わされました。
その到達点として、作品集があると思います。
竹内敏喜さん、有働薫さん、高田昭子さん、宮越妙子さん、白井明大さん、小網恵子さん、
どの方も自分の世界をもっておられ、
すると一篇だけ読むのでは物足りないという感があります。
作品がまとまることで、一端ではない丸々ひとつの世界を、
塊として感じたいところです。
塊となって初めて見える「何か」もあると思うのです。
沢山の作品をまとめて、力を込めてぎゅうと絞って、たった一滴したたり落ちるもの、
それは表現者の一番奥底にあるもののような気がします。
上に、小網さんと書きましたが、
小網恵子さんの新しい詩集が出来上がり、頂くことが出来ました。
タイトルは「浅い緑、深い緑」。
小網さんの作品を、私は非常に好きです。
毎回、純粋な一読者として作品を拝読させていただいています。
読者とはわがままなもので、ですから意見交換のときに、
随分と無理なことを言ってしまうことがあります。
自分も詩を書く身ですから、難しいことを言っているということは、
重々承知なのですが、わがままな読者ですから、つい言ってしまいます。
今回も言ってしまいました…。
小網さんの詩集、実はまだ読んでいません。
好きな本は、中途半端な気持ちで読み始めてしまうのがもったいないのです。
他の事を頭から追い出し、静かな気持ちで扉を開き、
じっくりと正面から味わわないともったいない。
ですから感想は後日…。
二次会では、特に竹内さんと桐田さんとお話をしました。
この二人、上品とはいえませんが、心から詩を愛している人たちです。
私の書いた詩を真剣に読んで、遠慮なしに批判してくれます。
ほかにも詩に対する姿勢や、今の詩界の現状について、大いに語りました。
酔っ払いトークですが…。
しかしこの方たちと思い切り話せる時間があるということは、
なんとも幸福なことです。
Apr 14, 2006
久しぶりに、
音楽の話など。と言っても、最近は音楽を聴くことがめっきり少なくなり、
しかも聴くものといえばクラシックが主になってしまいました。
で、最近聴いているのはブルーノ・ワルター指揮による交響曲。
この人はフルトヴェングラーなどに並ぶ大指揮者で、
いまごろ聴いているのが恥ずかしいくらいに有名な人です。
ちなみに50年ぐらい前に亡くなっています。
私はどちらかと言うと、激しい演奏をする指揮者が好きなので、
ワルターのように美しく演奏をする人は、あまり聴く気になりませんでした。
それがひょっこりブラームスの交響曲第二番を聴いたところ素晴らしく、
以前から持っていたマーラーの九番を聴き直したところやはり素晴らしく、
それからレコードをまとめ買いしてきて、
「なんだ。こんなに良かったのか。こんなんならもっと早く」と反省しているところです。
まとめ買いといっても私の場合、中古品を買うのがほとんど、
しかも未だCDよりレコードを愛好するもので、
一枚数百円というものを何枚も買ってくるのですね。
場合によっては、5枚で千円なんてものもあり。
しかし日本のレコードマニアと言う人たちは、
買ってもすぐにカセットに録音して、そちらを聴いていたので、
中古のレコードでも、
実は幾らも針を落としていないというのがほとんどですから、
音が劣化して聴けたものではない、と言うことは皆無です。
貧乏人にはありがたいことです。
いや、しかし私は、
いまだにCDよりレコードの方が音がいいなあと思ってしまうものです。
確かにノイズはありますが、音自体の広がりとか奥行きとか生々しさとかが、
レコードの方がずっと優れているように思えます。
音にはっきりとした手触りがあるのですね。
感じとしては、歯応え、と言ったほうがしっくりくるかもしれません。
特に弦楽器の、あの弦と弦がこすれあう感触なんかが、とても気持ちいいのです。
CDではそれが滑らかに磨かれすぎているようで、
数値的にはいいのかもしれないけれど、味気なくてつまらないのですね。
それに中古なら安いし。
ワルターの録音は、50年代後半のものであるにもかかわらずステレオです。
この頃のレコード会社は、みな凄腕の録音技術者を抱えており、
音質は、今年録音されたものと言われても納得してしまうほどにいいです。
各楽器の響きは勿論、楽器が鳴っていない空間にも、
音の粉がふわふわきらきらしているのが見えるよう。
この快楽が一枚200円とは…。
つくづく時代遅れの人間にとってはいい時代です。
それと、これはCDですが、
ロシアのピアニスト、アナトリー・ヴェルデルニコフのベートーベンピアノソナタを
よく聴いています。
特に後期三大ピアノソナタと、29番のハンマークラヴィーアは素晴らしい。
思い切り魂がこもった演奏、情感が雨だれのように流れ出してきて、
この曲の演奏では一番好きです。
ハンマークラヴィーアのアダージョは、通常の演奏よりずっとゆっくりに演奏していて、
それがえもいわれぬ程切なくて美しいです。
ソビエト時代の録音と言うのは、大体において非常に音が悪いのですが、
この演奏はモノラルながら、なかなかちゃんと録れています。
それ以前に演奏内容がとてもいいので、音のことはあまり気になりません。
現在は、「ロシア・ピアニズム名盤選」というシリーズのひとつとして、
DENONから一枚1260円で出ています。
Apr 11, 2006
なんかまた寒くなっちゃいましたね。
季節の変わり目と言うこともあってか、私の周りにも体調を崩しているひとがちらほらいます。
どなたさまも気をつけて…。
谷内修三さんが、御自身のHP「象形文字」内の「読書日記」(4・7付け)に、
拙詩集についての文章を書いてくださいました。
この「読書日記」には他にも、詩集を中心とした膨大な書評が綴られています。
丁寧に作品を読み込み書かれているので、非常に参考になります。
未見の方は、是非一度御覧になってみてください。
PSPの合評会などで他の人の作品を読むとき、
なんらかの欠点が目に付いて、
そのことを発言してみるのですが、
あとになってつらつらと考えてみると、
その欠点は自分の欠点でもあるということがあります。
というか、ほとんど確実にそうなのです。
人間の目というものは自分勝手なもので、
外の世界を眺めていても、
自分に関係するものしか見えないものだと思います。
作品でなく人自体を見て「この人のこういうところやだなあ」なんて思っていて、
しかしよくよく考えてみると、自分もまったく同じ嫌な部分を持っている、
と言うことは多いと思います。
自分が持っている部分であり、それを嫌悪しているからこそ、
同じものを他人に見つけると気になってしまうものなのでしょう。
逆に、自分にその部分が全くなかったり、気にしていなかったりすると、
他人の明らかな欠点に接しても、全く気にならない、
もしくは気付きすらしなかったりします。
ですから、他の人の作品を読んで目に付いたところがあったら、
それは自分にも同じところがある、と言うことなのでしょう。
自分と違うスタイルの作品、
または自分が好きでないスタイルの作品を読み、
その問題点について考えることは、
同時に自分の作品の問題点を認識することにもなると思います。
自分の作品を客観的に見ることはなかなか難しいことですが、
そのひとつの方法として、他人の作品を真剣に読むというやり方は有効だと思います。
そういう意味では、PSP合評会のように、
自分と全く違うスタイルと正面から向かい合える場は、
私にとって貴重です。
いままでは読まなかったようなスタイルでも、
ある程度の時間を持って読むと、どこかに必ず発見があり、
それを見つけて吟味することは、そのまま自分のメリットになると思います。
ところで水仁舎のHPを見ると、
遂に小網恵子さんの詩集が出来上がったようですね。
写真入りで紹介されているのですが、
相変わらずというか、北見さんの本造りはため息ものです。
内容も間違いなくいいものになっていると思いますので、
早く手にとって見たいところです。
Apr 08, 2006
前回の合評会のときに、
ルピュール同人の柿沼徹さんから、御自身の詩集「浅い眠り」(水仁舎)をいただきました。
素晴らしくいい詩集で、もう何回となく読み返しています。
この詩集は2003年に出されたもので、
収録されたどの詩も、飾り気のない純粋な言葉のみで綴られており、
だから難解な言葉など一つもないのに、
そこから放射される抒情は無限のように心に広がっていく純度の高い作品群です。
読み進めるにつれ、ぐっと胸を詰らせられる感慨が、
まるで池に波紋が次々と現れるようにして広がり、
するともうほとんど癖になるようにして、
次の作品、次の作品へと読ませられてしまいます。
詩の主人公として出てくるのは少年と、
大人の中に残っている少年、
そして少年を見詰めている大人です。
少年の息子を持ったことはありませんが、
同じく少年だった経験を持つ自分としては、
それぞれの詩篇でかもし出される痛みや切なさが、
文字通り痛いぐらいに感じとられ、
脱力に近い余韻を残されます。
10行から20行ほどの短い作品が主なのですが、
そこには必要でない言葉はひとつもなく、しかし必要な言葉はすべてあり、
単語ひとつひとつ、あるいは文字ひとつひとつが非常に濃く、また強固で、
「これしかない」という輪郭にひとつの詩がまとまっており、
白い氷の結晶に触れる感すらあります。
是非お薦めしたいところなのですが、
残念ながら少数部数発行の詩集なので、
多くの人の手に渡ることは難しいと思います。
本当はこういう詩集こそ、町の本屋に並んでほしいと思うのですが。
詩を書き続けていくと、段々と表現することに欲が出てきて、
しぜん作品が長くなっていくようです。
私も最初の頃は20行未満の短いものも多く書いていましたが、
最近は60行程度のものがほとんどになっています。
自分としては、これ以上削れないというところまで推敲しているつもりですが、
しかし柿沼さんのシンプルで深い抒情を持つ詩に触れてみると、
自分の今の詩は、どうにも喋りたがってい過ぎるような気もします。
訊いてもいないのに、勝手にどんどん喋ってくる奴はうざいですね。
私の詩も、そんなようなものになってしまっているかもしれません。
自分では多くのことを語ったつもりでも、
柿沼さんの作品の十分の一も表せていなかったようです。
喋りすぎる状態から脱するには、
より言葉というものを信用しなくてはならないのでしょう。
言葉を、また自分自身をも信用していないから、
不安で仕方がなくて、際限なく言葉を連ねてしまうのでしょう。
自分の内面と対話し、
それと素直に響きあう言葉のみを選び出して並べていけば、
それで過不足なく詩は成立するのでしょうし、
そしてそれはきっと、そんなに長いものにはならないはずです。
なんて口で言うほど簡単にいけば、苦労はないのですが…。
Apr 05, 2006
いい陽気になってきたにもかかわらず
詩の世界では「ぽえむ・ぱろうる」が閉店になるわ、「ミッドナイト・プレス」は休刊になるわで、
残念なニュースが多いですね。
とはいうものの、詩手帖の投稿欄を見ると、
新しい人は順調に育っているようです。
行替えのない長い詩が主流であった今年の投稿欄は、
私のような者には読みにくいものも多かったのですが、
個人レベルではみなそれぞれに試行錯誤を繰り返し、
自分のスタイルを模索している様子が垣間見られます。
最近の投稿欄を否定的に見る方も多いようですが、
投稿されている方は二十歳前後の若い方が多いようで、
するとこれからの人ばかりですから、
まだまだ捨てたものではないと思います。
私は他人の作品をどうこう言えるほど読む力があるわけではありませんが、
個人的には山田亮太さんと広田修さんが面白いなあと思ってみていました。
山田さんは、毎月激しく作風を変えてきますが、基本的な筆力のある方で、
それぞれの作品は高いレベルにまで押し上げられています。
4月号の作品はリズムのある、読んでいて気持ちのいい作品でした。
広田さんはスタイルは毎回ほとんど変わりませんが、やはり筆力のある方で、
幻想的な世界が綿密にしっかり形作られています。
4月号の佳作には森悠紀さんの名前があり、
作品名を見ると、先々月にPSPで見せてくれたものと同一のようです。
森さんは、私が投稿していたころから、作品をよくお見かけしていましたから、
もう長く投稿されており、しかしそのスタイルはかなり変貌を遂げています。
そういうところをみていると、みなそれぞれに、
必死に何処かへ到達しようとしているのだなあと思います。
他にも、静かに白い言葉が流れていく望月悠さんや、
それとは対照的に激しく言葉を撒いていく最果タヒさんなどが注目でしょう。
詩手帖賞を取りそうなのは、ここらへんの方でしょうか。
こういう方たちが彷徨の末にどこかに辿りつき、
吸引力のある作風を身につけて世に出て行けば、
また詩の可能性も広がっていくのではないでしょうか。
長く停滞してきた現代詩の世界ですが、
そろそろ新しいムーブメントのようなものが起こってもいい気がします。
私自身の作風は寧ろ近代詩に近いものですので、
そんなムーブメントとは無縁となるでしょうが、
私もやはり自分の作風を絶えず模索し高めつつ、
若い人たちの動きを眺めて行きたいと思います。
しかし「ミッドナイト・プレス」などの詩誌が減ってしまえば、
新しい人の作品が、不特定多数の目に届き難くなりますし、
詩を専門に扱う本屋さんが減ってしまえば、普通の本屋さんは、
やはり確実に売り上げが見込めるベテランの詩集をまず置きたがるでしょうから、
新しい人の詩集は置かれにくくなってしまうでしょう。
ここらが一番悲しいところですね。
現在、詩人和合亮一さんが中心となる「ゼロネンダイプロジェクト」が、
水面下で緩やかに進行中ですが、この動きが新詩人の誕生に貢献できればと思います。
そのような状況を作ることは、現状を見ると大変に厳しいでしょうが、
ゼロプロのスタッフには若い人が多く、また行動的な人も多いので、
私なりに可能性を感じています。
Apr 02, 2006
現代詩手帖4月号を購入。
今号は、急逝された茨木のり子さんの追悼特集。茨木のり子さんの詩に私は「もの言う詩」という印象を持っていました。
読むと、真っ直ぐこちらにむかってものを言ってくるのです。
詩というと、内に向った言葉で書かれることが多く、
しかも外に向った詩の言葉は大抵疎まれるものであるのに、
茨木さんの詩の言葉は、容赦なくこちらに向ってものを言ってきます。
極めて個人的な感慨を言っているものも茨木さんの作品には多いですが、
それでもやはり言葉はこちらに向ってきます。
ときに辛らつなもの言いで「むっ」ともしますが、
すぐに「うーん」となってしまいます。
はっきりと読み手に向って言われる詩の言葉は、
大抵は恨み言になってしまったり、説教になってしまったりしますが、
そうなるのは恐らく言葉が自分勝手だからなのでしょう。
茨木さんの言葉は、辛らつであっても自分勝手ではなかったと思います。
だからすぐに「うーん」となってしまって、
次の言葉へと読み進まずにはいられないのでしょう。
不勉強なことに私は「倚りかからず」しか持っていないのですが、
どこかで未読の茨木さんの詩を見かけると、どうしても最後まで読んでしまいます。
考えてみるに、私は茨木さんの名前を見るたび、
無意識になにかものを言って欲しくなっていたのかもしれません。
そんな私のような弱い人、あるいは心に弱い部分を持つ人が求めずにいられなくて、
「倚りかからず」は売れたのではないでしょうか。
勿論本人は、そんな連中にものをいう気などさらさらなかったのでしょうが。
亡くなられたことはとても悲しい出来事ではありますが、
詩集八冊ぶんの鮮やかな「もの言い」を残してもらったことを、
いまは感謝すべきなのだと思います。
しかし詩手帖に追悼文を寄せられた人の中に「お会いしたことがなかった」
または「十数年もお会いしてなかった」という人がとても多いのは、
凡人の目にはなんだか胸を締め付けられることでした。
しかしそれが、茨木のり子という詩人だったのでしょう。