Apr 21, 2006

雨は降るわ風は吹くわ午後から晴れるわで、

天気のごった煮のような一日でした。

そんな今日は小網恵子さんの詩集「浅い緑、深い緑」(水仁舎)について。
奥付をみると四月二十二日発行、出来立てほやほやをいただきました。

小網さんの描かれる世界は、日常の手触りがある文章であるのに、
夢の中を泳ぐような感覚があります。
いい夢でも悪い夢でもなく、しかし深い不安が立ち込めていて、
読んでいる方は、同じ感覚をどこかで味わったことがあるような気になり、
思わず目を見張ってしまいます。
日常にふと現れた破れ目から、するすると不条理な出来事や心理が連なっていく様子は、
わざとらしくも不自然でもなく、鮮やかに著述され、
するとありえない出来事でも、そういうこともあるだろうなあなんてぼんやり思いつつ、
歩調を変えずについていけてしまう、そんな不思議な魅力をもつリズムが、
小網さんの作品にはあります。

どの詩も、はっきりとした到達点を目指すものではありませんが、
しかし意味のない出来事の連なりにしか思えない夢にも、実は何らかの意味があるように、
全ての篇に押し隠された意味が実在することを感じます。
それは読み込んでいけば解けるというものではなく、
いつか何処かの瞬間に、あ、これか…、と気付くような感覚です。
このような作風ですから、当然フィクションの部分は多いのですが、
しかしだからといってそこに真実がないわけではありません。
フィクションを描くことによって、事実を描くよりも寧ろ真実に近づくことを、
人は随分昔からしてきているのですし、
小網さんの詩の中にも、フィクションはあっても嘘はないと思います。

私が小網さんの詩に惹かれる部分のひとつに、登場人物があります。
自分自身のほかに、他者が出てくる作品が幾つかあるのですが、
私はその人たちに顔を感じません。
印象としては、やはり夢の中で出会った人物、という気がするのですが、
しかし夢と違うのは、顔を感じなくても体臭を感じるということです。
体臭とはある意味、人間の存在を顔よりも強く感じさせるものだと思います。
それが巧みに描かれていることにより、作中のどんな不条理な出来事や行動も、
人間の所業として納得され、またそのまま現実の世界に目を向けても、
人間はどんな不条理もやってのけてしまうものであることを感じさせられます。

更にもうひとつ、小網さんの作品にはタイトル通り緑が多く登場します。
その緑は大自然の緑ではなく、人の生活のすぐ傍にある緑です。
不自然な形で人間の傍に連れてこられている緑であるにもかかわらず、
その緑はとてもとても深い色をしています。
その深さは、人間の目と心を通した深さ、
あるいは人間の内から流れ出し混ざり合って成された深さのように思えます。
この業のような緑色に敢然と立ち向かって生活する、それが作者にとって、
生きること、であるように感じます。
そして得られたものは、女性の強さにも似た生命の濃さです。
性別で詩を判断することを必要以上にするべきではないと思いますが、
やはりこの作品集は、男性には決して書けない生命の形だと思うのです。

先日の柿沼さんの詩集に続いて、素晴らしい詩集を読むことが出来ました。
水仁舎のホームページで出来上がる過程を見ながら、わくわくして待った詩集でしたが、
美しい装丁にふさわしい内容の作品集で、待った甲斐があったと言うものです。
さて、私も負けずに頑張らなくては・・・。
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