Jul 08, 2007
宗教・神話・詩論
随筆岸谷散歩朱夏篇四月が終わるころから本格的な夏の匂いが流れる梅雨の晴れ間、この六月の末にかけて、実に良く歩いている。日によって、うちから見て東北の総持寺方面と、西南に当たる子安台公園の方面と、ふたつに分けて歩いていることになる。きょうは子安台公園のほうに行ってみようかと思う。腹ごしらえは、生麦商店街の中華「自由軒」か、手打ち蕎麦の「味楽」の麺類でたいてい済ます。
大踏切を渡り、岸谷の商店街に入ると陶器と花を売る小さな店がある。ホテイアオイや金魚なども売るそこで、最近目につくのは水に浸けて青々としたサカキの葉の束である。年の瀬に鳶職などが仮屋を出してユズリハや松や竹を売るのを見ることはあっても、街の花屋などで時季ごとのこういったものを出す光景に、近ごろはとんとお目にかかっていない。そういえば総持寺の大伽藍の前に、昭和四十年代の初めに植樹されたものか、宮様(常陸宮だったか?)お手植えのサカキの大きく育った一対があった。また、生麦ではこのころに巨大な青萱の蛇形が家々を回って雨を乞い、災厄を祓う「蛇も蚊も祭り」(じゃもかもまつり)などあって、この夏の初めは神様関係が何かと忙しいようである。それを見て、なんとなく実朝の歌にこんなのがあったのを思い出した。
神まつる卯月になれば卯花の憂き言の葉の数やまさらむ (金槐和歌集巻之上夏部)
六月は卯月ではないが、陰暦にすると梅雨時の概ねこのあたりのこととしてそれほど非道い間違いとはいえまい。今年はいろんな花の勢いがいい、ということもある。現に岸谷の垣根のあちこちで卯の花はいまを盛りと(だがある意味ひっそりと)咲いている。実朝の云う「憂き言の葉」とは何か。恋か、人間関係か、自らの悲劇的な未来への予感か(卯の花に卯月はもちろん、憂きことや神まつるを掛ける、などは、まことに詠い尽くされた観のある縁語、クリシェであるが)。それらもあるだろう。あるだろうが、そもそもそれら人間感情を本来覆っているもっと根本的なものが、この「歌」という形を通して現れ出ているようにも私には思える。金槐和歌集夏部の、この歌の一つ前は詞書付きのこんな詠だ。
卯花
我宿の垣根に咲ける卯の花はうきことしげき世に(こ)そ有けれ
ごく初学の手習いのようでもある。でも、憂き言の葉の数がまさるといい、うきことしげきといい、何か夏になるに従って深くなりまさる木下闇、はなはだしくなってゆく「うたてきこと」という感じがあって、さすがに歌になっている。『古事記』において「うたてあり」とされたスサノオの振る舞いは、浄められ、祓えられなくてはならなかったのだが、「卯花」の詞書を持つこの歌の、たとえば「世にある」における「世」が有する、実朝にとっての意味ということをやや重く考えたい。
吉本隆明氏の「制度としての実朝」は、その著『源実朝』(日本詩人選・筑摩書房)における最大の卓見であったが、私の感覚では、詩人としての実朝と、制度としての実朝を峻別するところで何かを見落としてしまうような気配がしてならない。吉本氏によると、制度としての実朝は、同時に祭司としての将軍(祭祀の長者)でもあった。この祭司というものを、あまりおどろおどろしい、昔の米製映画が「インディアン」を描くみたいな、バルバロイな感じで考えるとヘボ筋にはまる。伊豆権現、箱根権現の二所詣で行のなかで数々の名歌をものし(だが、なぜ「名歌」なのか)、鶴岡八幡宮にほぼ月参する。このような行住のなかで、同時に神の言の葉でもある歌が、それら宗教生活的なものと何ら関係がない、とはとても思えない。さまざまな予祝や慎み(ツツミ)、災厄退散の咒法がいとなまれるこの時期、農事にとって先鋭なまでに神聖な卯の花に掛けた「ウキコト」に、実朝個人を超え、かつ祭司としての実朝の孤影に輻輳するモノたちの翳を見ないとしたら、これらの卯の花の歌はまことにありきたりな、月次の歌でしかないのである。この時代、純粋に個人的な詠草というものがあったのかどうか、否、本来「歌」を詠むという行為の本質に、近代的な意味での個人という概念がなじむものなのか、どうか。『サラダ記念日』なんかを思い浮かべてみたとしても、この感慨は変わらない。
岸谷の商店街から杉山神社の丘を迂回して子安台公園に上がる坂にさしかかる。岸谷小学校へ向かうその坂の植え込みに小笹の群落があって、ことしは一斉に線香花火の火花みたいな黄色い竹の花が咲いた。いまは青い実を結んでいる。ためしに禾(のぎ)を毟って中の小さな胚乳を取り出し、口に含んでみたら青臭い竹の匂いと微かに甘いデンプンの味がした。かつて竹の実は飢饉の際の救荒食だったことがあると聞く。だが花が咲き、実を結ぶことによって、やがてこの群落の全体は枯死することになる。それにしてもイネ科の植物たちの、とくにその花の咲くさまに何と心震えるものがあることか!
谷あいになっている、猛々しいばかりの濃緑の草木に囲まれた、まさに故園という感じの古い古い児童公園を抜けて、階段を使っていきなり坂の頂上に出、そこからさらに工事中の仮設階段を上って丘のてっぺんに開けた子安台公園に至る。現在、丘の真ん中をぶち貫くトンネル工事をやっていて、著名なここの貝塚などはどうなってしまうのか分からないけれど、丘の中腹にあった「滝坂不動」の湧水はとっくに涸れ、いきおい地中の水脈も変化して、この丘の、恐らく貝塚時代から続く植生も滅んでゆくのは時間の問題だろう。さいしょ工事現場の外壁は、よくある「緑豊かな」蔦の絵が描かれたパネルを用いていたのが、このごろはそれがガーデニング風の明るい色の木柵に変わり、そこにいちめんに吊り下げられたテラコッタの鉢のなかにはまさしく色とりどりの本物の洋花が植わっていて、なんとも癒されたいわれわれの眼と心を癒してくれる。いよいよ深間にはまって足掻いているのだと思った。野蛮とはこういうことを指すのだ。
しかし展望台のようなその丘に立って、私は驚嘆することになる。そこはタブノキの群生が見られるのだ。それは折口信夫の、かの『古代研究・国文学篇』の口絵の写真に登場する、かつて日本列島の沿岸地帯全体を覆っていた、神の蓬髪を思わせるあの常緑高木である。そのまことにはかない、宝石のような古形の残存がみとめられるのだ。タブノキの葉陰から南に、青い横浜の海が眼に飛び込んでくる。中沢新一氏の『アースダイバー』ではないが、まさにここは彼岸と此岸が接触するというミサキの思想そのものを具現する場所ではないか。貝塚からは人骨も出ることがあると聞くが、そこが現代のような意味でのゴミ捨て場でないことはあきらかである。たぶん新石器人にとって貝塚とは何らかのsaintの思想が交錯する場所であったろうことは疑いない。そして北に眼を転ずると三つの谷と三つの丘が、それぞれミサキの形をとってはっきりと視認できる。それは、杉山神社の丘、北町八幡神社の丘、そして青い大甍が覗く総持寺の丘である。みんな海の方向に突き出ていて、クレバスのように入り組んでいるその谷あいは、そこがまさにかつて狭隘な入江だったことをうかがわせる。私は、この子安台の丘を含むそれぞれの丘の上に立ったことがみんなあるけれど、それぞれが天空に近い感覚にありながら、なぜか井戸の底に居るようなしんとした静けさと落ち着き、心地のよさを覚える。社寺の立地ということに関し、こういう感じはかなり重要な何事かを語っているような気がしてならない。
起伏の多い土地をすでに二時間あまり歩きつづけている。さすがに疲労を感じてきたので帰り道をたどることにする。鮮魚「魚徳」で買ったマグロの落とし(通常三百円)を提げて、生協までのちょっとしたナワテみたいな裏道を行く。右手には、春先に柔らかい若葉と棘を萌えさせたカラタチが、いまではすっかり濃く青く、硬くなった葉と棘を広げている。ああこれが枳殻垣というものなんだと思った。その葉をちぎって鼻先に持ってくると微かに鋭い柑橘香がたつ。高貴な女人が放つ悋気、とでもいうべきか。猿蓑歌仙における、凡兆句につけた芭蕉の以下の、光源氏の年上の愛人である六条御息所のおもかげを添わせる句は、棘のほか、香りもその重要な要素だったような気がする。暗夜に匂い立つ枳殻邸(六条河原院)の闇の絶え間は、実朝の「憂き」卯月の、ウツギの花の「にほひ」とはちょっと違うのだけれど。
隣をかりて車引こむ 凡兆
うき人を枳殻垣よりくゞらせん 芭蕉
06/6/21~22
初出「メタ17号 2006・6月」
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