Jul 08, 2007
宗教・神話・詩論
岸谷タブノキ始末前回の「リタ」に載った岸谷散歩で、近所の子安台公園にタブノキの群生があると書いたが、いささかの訂正をおこないたい。私が群生と見たものはその後のいろんな調べと観察により、タブノキではなく、比較的最近に人の手によって公園樹として植えられた別の木である可能性が高いことが判明した。興奮した私が馬鹿みたいだが、しかし公園から外れた同じ丘の上に明らかなタブノキが一本自生していることから考えて、全くの見当違いというのでもないことも判った。
事実それどころか今回の岸谷散歩草木虫譜でも書いたように、私の住まいする岸谷のあちこちに(庭木としてさえ!)タブノキの植生は確認できるのだ。葉の形、芽のつき具合、若葉の出方、幹のありさま、実の生りよう、それと葉を千切ったときの芳香と、同定の基準である、葉柄を切断してもう一度傷口同士を接着させたのちに、そっと引き離すと粘液質の糸を引くという観察などから得られた結果である。
また、かの子安台公園から遠く望んだ総持寺の森は、実際に行ってみると、それこそ古代色ゆたかなこの木のまさに群生林と言っていい。ただし、七堂伽藍のある丘の頂上は徹底して人の手が入っており、下草はきれいに刈られ、植物苑などもあり、もとからある樹木としてはクスノキの大木だけが残されたことが窺え、あとはシイノキやマツ、ここらあたりの他の公園やマンション内の植栽としてよく見る(名前は知らない)樹木がこまやかな手入れの跡を明らかにして植わっている。総持寺が能登の鳳至[ふげし]からここ横浜は鶴見の地に移ってきたのが明治四十四年というから、手入れされた木々は大木に見えて実は百年も閲していないということになり、それ以前、この丘を覆っていたのは一面のタブノキであったと考えられる。
訂正することがもう一つある。総持寺の大祖堂前に常陸宮お手植えのサカキがあると書いたが、サカキではなくってあれは月桂樹なのだった。お手植えは宮様一人の行跡ではなく、常陸宮妃もお手植えになった、そうした一対であったのだ(これとは別の、迎賓館に当たる堂の前に、高松宮妃お手植えの同じく月桂樹がひともとだけあった)。これにつき、少し気がついたことがある。西欧的「左右」観とはかけ違い、大祖堂に向かって右手に宮妃の樹、左手に宮の樹があるということで、なるほどこれは右大臣ではなく、左大臣のほうに優越を考えることに現れている、極東に位置する島嶼地域の「左右」に関する伝統的なものの考え方に基づいているのだな、と納得させられた。
七堂伽藍の背後、広大な墓域との境に位置する場所に四方を築地で囲った非公開の、高い格式を思わせる神社様式の建物がある。後醍醐帝を祀ったものだそうで、総持寺は帝の深い帰依を得ていたらしく、その宸筆なども境内の宝物舘に収蔵されている。寺の、東北(鬼門)ではないけれど明らかに北側に位置するこの施設の名は御霊殿と書くが、帝の生涯や行跡、ご気性を思うともしや御霊信仰に関係する「ゴリョウデン」と読むのではないか、と興奮したが、これはごくふつうに「ゴレイデン」と読むそうだ。けだし読み方はゴレイデンであるにせよ、そのような高い霊位を有する施設が寺の鬼門に近い場所を占めている、という事実に変わりはない。
06/10/03
初出「メタ19号」
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