Jul 10, 2007

宗教・神話・詩論

歎けとて――百人一首の西行


 月花とくれば代名詞みたいにその名が挙げられる西行法師の、その月の歌である百人一首の「歎けとて」の詠は意外に不人気であるようだ。私も、ほかに彼の月の名歌はいくらでもあるだろうに何でよりによってこんな屈折した歌が撰ばれたものかと、長年考えてきたのだが、さいきんそうとも限らないぞと思うようになってきた。現在手軽に入手できる文庫本で、委曲を尽くして格調高さを疑い得ない善本である島津忠夫訳注『百人一首』(角川文庫)によって、ちょっとこの歌を見てみたい。

歎けとて月やは物をおもはするかこちがほなるわがなみだかな

現代語訳・嘆けといって月がもの思いをさせるのであろうか。いやそうではない。それだのに、それを月のせいにして、恋しくなつかしく恨めしくこぼれ落ちるわが涙であることよ。(184頁)

 ちなみに新明解古語辞典の現代語訳では、こうである。

[月は何も嘆けといって物思いをさせるわけではない、それなのに(月を)見るとそのせいで悲しい恋を思い出させられて、涙が落ちることである]

 一首のうちで上の句の反語的な言い掛けが問題なのではない。一首の読みを厄介にしているのはたぶん「かこちがほ」なのだと思う。託ち顔とあてるその言葉は、二様の意味を含んでいて、一つには何かに文字どおりかこつける、ことよせる、口実にするなどの意であり、もう一つは嘆きや恨みを(大声でなく)訴える義がある。どうしてこの二様の義がおなじ言葉の中で分かれているのか、恐らく二つが一つである深い理由が存在するはずであるが、今の私の手には負えない。ただ、西行は明らかにこの二つを一つの言葉のうちに掛詞みたいに使役していて(かこつける・恨み嘆く)、この言葉の読みのいわば匙加減によって、一首がつまらなく見えたり面白く見えたりもするのだろう。
 たぶんこれまでこの歌を私につまらなく見せていたのは、恨み、嘆きに重きを置いた解釈や訳だったのではないかと思う。もっと言えば、西行を単なる多情多恨の感じやすい恋愛詩人という肖像で描出する一連の解釈が、私以外にも無数にいる西行好きからこの歌を遠ざけていたのではないか。問題は「我」が恨み嘆いている相手は「誰」であるのか、ないのか、ということではないか。また、その恨み嘆く感情のよってきたるところは何かと。『千載集』恋の部に「月前恋といふ心をよめる」として見えるこの歌の、いわば難解さともかかわってくるのだが、私の考えでは恐らくそれは都にいる(仮託された)女人の誰それについてではない。そのやってきた感情は女人への恨みつらみではない。この歌ばかりではなく、西行の月花、恋の歌は、実はある宗教感情というべきものに深く関係しているのではないかと私は考えているのだ。
 同じ『百人一首』で島津忠夫氏は、大僧正行尊の吉野大峰山中で得た歌、「諸共に哀と思へ山桜花より外に知人(しるひと)もなし」について《定家が『八代抄』(雑上)に、『金葉集』の詞書を変えて、「修行し侍りける時」とし、この歌と「草のいほをなにつゆけしと思ひけむもらぬいはやも袖はぬれけり」の歌を並べているのも、やはり、これらの歌に宗教的な崇高な感覚を味わっていたものであろう。》と述べている(144頁)。山桜の花に「あはれ」を観ずるのも、もらぬいわやに袖を濡らすのも、何と恋情の表現に近いのだろうかと思う。西行の月花の歌をちょっと引いてみても、この感情(崇高な感覚)の側から見た方が鮮明な像をむすぶような気がしてならない。

かげさえてまことに月のあかきには心も空にうかれてぞすむ
ながむればいなや心の苦しきにいたくなすみそ秋の夜の月
世のうさに一かたならずうかれゆく心さだめよ秋の夜の月
よしの山花をのどかに見ましやはうきがうれしき我が身なりけり
花みればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける
もろともに我をも具してちりね花うき世をいとふ心ある身ぞ

 宗教的感情をいうのなら仏教のそれとばかりは限定されない。役小角や良弁が山中修行中に覚えたであろう「感情」は仏教以前のものを多分に含んでいたであろうし、またそういう心の古くて巨大な堆積がなければ大きな意味での仏法の東漸はありえなかったはずである。西行の、ここに見られる「(心も空に)うかれゆく心」や「うきがうれしき」我が身、花を見て理由もなく苦しくなる心など、それらに意外に近代的な抒情を発見して驚いてみても空しい気が私にはする。これらは近代的感傷というよりは、むしろ巫祝のトランス状態に近いものがあるのではなかろうか。しばしば忘れられがちな、西行が宗教者であることの側面をもっと重く受け止めるべきかと私は思う。
 無謀を百も承知で現代語訳を試みてみる。以下。

歎けとて月やは物をおもはするかこちがほなるわがなみだかな

試訳・嘆けといって月が人に物思いをさせるということがあろうか。[月に計らいはないのだ]かがやく夜の月にかこつけ誣(し)いるようにしてあふれ出る、わが嘆きの涙よ。


06/04/17
Posted at 10:00 in sugiyama | WriteBacks (1) | Edit
WriteBacks

いい歌ですね!

「歎けとて・・・」・・・名歌だと思いました。
言語表現の極致といった感じを受けます。

それにしても思うのは、この言葉遣いは、西行法師の生きた時代の「現代語」だったかどうかという点です。

もし、古文であったとしたら、現代においても短歌は現代的でありえるのかなあ?なんて考えてしまいます。

Posted by じゅうし at 2007/07/10 (Tue) 16:35:34
TrackBack ping me at
http://haizara.net/~shimirin/blog/kurata/blosxom.cgi/sugiyama/20070710094558.trackback
Post a comment

writeback message: Ready to post a comment.