Oct 11, 2021
肖像画のフォルム
![e1](/~shimirin/blog/kirita/entries//20211011213444.files/e1.jpg)
マンスフィールドさん。
おつかれでは?
いえいえ。
今回は、肖像画のフォルムについて、
ちょっとご紹介。
![e2](/~shimirin/blog/kirita/entries//20211011213444.files/e2.jpg)
「ユダヤの女」(1908)
モディリアーニがパリに来て、
2年後に描いた肖像画。
![e3](/~shimirin/blog/kirita/entries//20211011213444.files/e3.jpg)
「ポール・アレクサンドル博士」(1909)
これは、モディリアーニが、
パリに来た翌年に知り合って友人となった
美術愛好家ポール・アレクサンドルの肖像画。
この人は当時研修医(のちに高名な外科医となる)で、
歯科医志望の弟のジャンと共に、デルタ街に
家を借りて芸術家たちのための共同生活体を
つくっていて、そこにモディリアーニを招いてくれた。
貧しかったモディリアニから
定期的に作品を買ってくれたり、
肖像画を描く仕事を周旋してくれたりもした。
モディリアーニに頼まれて、
彫刻家のコンスタンティン・ブランクーシに
引き合わせたのもこの人で、
物心両面で援助し、最初の庇護者といわれる。
(注1)
背景の壁に「ユダヤの女」がかかってるね。
![e4](/~shimirin/blog/kirita/entries//20211011213444.files/e4.jpg)
「ジャン・アレクサンドルの肖像」(1909)
ついでに弟ジャンのちょっと退屈そうな肖像。
![e5](/~shimirin/blog/kirita/entries//20211011213444.files/e5.jpg)
「乗馬服の女」(1909)
これは、アレクサンドルが知人の男爵に依頼して、
その夫人をモデルにして描いた作品。
夫人の着ていた赤い狩猟用スーツを、
モディリアーニが黄色に変えてしまったため、
夫人が気に入らず、
アレクサンドルが買い取ることになった、
というエピソードが知られている。
「モデルの夫人が気に入らなかったのは、
スーツの色ばかりではなかっただろう。
戯画化された顔の表情や大胆な筆使いにも不満だったに違いない。」
(島田紀夫「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」作品解説p85)
「モディリアーニは彼女の尊大なポーズのうちに
虚栄心を示すと共に、顔を極端に明るく描くことで風刺画的な
要素を出している。すなわち、卑しくすぼめられた口、
角ばった小さな顔の弓なりの眉毛などに効果が集中するように
工夫されているのである。」
(キャロル・マン『アメディオ・モディリアーニ』)
うーん。
こんなふうに風刺されたらやだね。
これまでの作品には、
まだ彫刻の影響というか、いわゆる
モディリアニー風の特徴がでていないことにも注目。
![e6](/~shimirin/blog/kirita/entries//20211011213444.files/e6.jpg)
「赤い胸像」(1913)
アレクサンドルに彫刻家ブランクーシを紹介してもらい、
彼の住まいの近くに居をうつして、
本格的に彫刻に専念する時期が、
1911年から1914年まで続きます。
「現在知られている彫刻作品は、『立てるヌード』と
『カリアティード』と呼ばれている作品以外は、
25点ほどの『頭部像』だけである。その代わり、
彫刻に関連したと思われる多数のデッサンが残された。」
(島田紀夫「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」作品解説p85)
これもそうした彫刻関連の水彩画のひとつで、
比較のために掲載。
![e7](/~shimirin/blog/kirita/entries//20211011213444.files/e7.jpg)
「アントニア」(1915)
「1915年に描かれた「アントニア」の肖像は、
彼の様式化された長い首をもつ頭部彫刻を強く想起させる。
モデルが誰であるかが判明しているにもかかわらず、
ここでモディリアニの関心が構図の問題に
集中していることを考慮すると、「アントニア」はモデルの
性格表現の研究ではなく、形の研究として分類されるべきだろう。
この肖像画は気さくで優しい女性を表しているが、
しかしその取り扱いはけっして人間的なものではない。」
(アネッテ・クルシンスキー「アメデオ・モディリアニ 裸婦と肖像」
p42)
興味深い鋭い指摘だね。
ここでは、彫刻の形の研究が、
肖像画に応用されてるのがよく判る気がする。
![e8](/~shimirin/blog/kirita/entries//20211011213444.files/e8.jpg)
「赤いネックレスをした婦人」(1918)
これは、「赤い胸像」(1913)の5年後の肖像画。
ずっと一貫してたのがわかる作品だね。
っていうか、理想的な形のイメージが先にあって、
そこに向かって描写していくっていう感じ。
以下はモデルになったひとのエピソード。
「1918年当時は美術を学ぶパリジェンヌだった
彼女は、育ちのよい若い娘の習いとして、
カフェに入り浸ることはなかった。
そんな彼女はモディリアーニを見かけたのは、
モンパルナスで食堂を営んでいたロザリアという
名のイタリア女性のところであった。
そこでは、腹をすかせた画家たちはデッサンや
スケッチを渡せば、食事ができたのである。」
「1959年に彼女が語った記憶は、
モディリアーニにまつわる伝説とは一致していない。
というのも、彼女の回想によれば、
モディリアーニは確かに酒を飲んでいたが、
それは不品行や悪癖によるものではなかったのだ。
当時の苦しい生活状況に追いつめられた彼は、
空腹と病を紛らわすためにアルコールに
頼っていたのだった。」
(「モディリアーニ展カタログ」作品解説 p160)
![e9](/~shimirin/blog/kirita/entries//20211011213444.files/e9.jpg)
マンスフィールドさんの作品紹介、
いつまで続くのかな。
まだ話したりないみたいだね。
解説)
はずみがついたままというか。
注1)このくだりについての記載は、
「モディリアーニ展」カタログの
マリー=クリスティーヌ・ドクロークの作品解説や、
キャロル・マンの評伝『アメディオ・モディリアーニ』
によっています。
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