Jan 21, 2008
おしっこの詩
本日日曜は実習の中日で、休み。久々に昼寝して疲れをとる。詩人金子光晴についてNHKが特集を組んでいた。金子の息子が徴兵を逃れ、金子も大東亜文学云々の会を脱退して、夫婦と息子の3人で田舎暮らしをしながら、家族みんなが書いた詩をまとめた詩集「三人」が発見されたニュース。へえと思う。けれど、実習の記録を書かねばと思って、テレビを消した。
今、老人の介護施設で実習していて、トイレ介助もある。そんなだから、どうしても広東の女が普段食べ物まで入れている洗面器におしっこしている場面を書いた「洗面器」という金子の詩が思い出される。
金子がその音に耳を澄ましている感じと、私がトイレ介助について老人のおしっこの音が聞こえてくる感じが重なるような気も。そういう読み方って、変かな。けれど、おなら、げっぷ、歯軋り、様々な音を人間は出すが、おしっこが何かに当たる音には、なにか安心してしまうくすぐったい感じもあったりする。ちゃんと排泄できるってのは健康だし。
Jan 16, 2008
実習3日目の朝に
今、特養ホームに実習にいってるので長い日記が書けませぬ。昨日はよく寝ました。
どうも、久しぶりにフルタイムっていうのは疲れます。以前介護職でしたから、さまざま善いことやあらゆることを感じますし。
でも、現場の職員や高齢者の方が懸命なので、勉強になります。
正月明けに、マンガ『神々の山嶺』を読みました。夢枕獏原作なので、基本、小説的です。谷口ジローさん画。谷口さんの絵は危機迫るものがある。
高度8000メートル。酸素地上の3分の1。45度の氷壁。気温-30℃吹雪。これだけ並べるとすごいですが、ここを登る人たちの話なんですね。
高所恐怖の方は、辛いかも。しかし、こういうとこにいくってのは、何かやまれぬものがあるのでしょうか。神々とありますが、様々な幻覚が見えることもあり、やはりある種のトランスを経験するみたいです。しかし、80年代くらいまであった、極地冒険は、フロンティアが消えて、少し沙汰やみなのかな。
でも、冒険っていろんなとこでできるように思います。
Jan 15, 2008
実習開始
昨日から特養ホームで実習開始。中味は守秘義務ということらしく…
帰って、ご飯を食べて、テレビでドラマ『薔薇のない花屋』を見ていた。野島伸司作のドラマは苦手。けれど、導入での本仮屋ユイカ嬢の登場で、そこはしっかり見た。とても美しく儚げな大人の女性になっていた。うれしくなる。
ドラマが何となく野島風の味つけの濃い展開になってきたところで、そろそろ日誌を書くことにした。一日の実習内容を細かく書かなければならない。日誌を12時前までに書き上げて、風呂入って寝た。
寝た…のは、よかった。しかし昨日から気を張っていて、今日も真面目に勤め上げたようで…
寝る前から雲行きが怪しくなっていたのだが。外で緊張して帰ってきて、ほっとして寝たら、反動で情けない気持ちや、イライラした感じが出てきた。おちつかないというか、ガキがむずがっているというか。
まあでも知らない間に寝ていて、睡眠は一応とれました。
今日も何とかやります。
Jan 04, 2008
年取らないとあの良さはわからんで
何とかほうほうの体でレポートが大筋で完成した。みなさま、あけましておめでとうございます。というわけで、実家に夕食を食べに行った。せっかくの正月なので帰省である。家に帰ると食卓に正月の残りのおでんやら何やらが出ていて、おいしくいただく。なぜか紅白の話になった。僕が寺尾聡が意外とよかったなどと云っていると母親は「寺尾さんも良かったけど、吾亦紅がよかった」という。僕が「でもあれはなあ」と難色を示していると母親は「年取らないとあの良さはわからんで」といってた。そうなのかもしれない。でも、どうなのかわかんない。
実家に大学の新聞が来ていた。もうすぐひとつ年をとるので、卒業してもう12年たつ。大学の新聞には、卒業後もあれこれお世話になったY先生が法学者カール・シュミットの研究書の書評を書いていて、面白く読んだ。はっきりいって大学の機関紙のほとんどの紙面って面白くないわけだから、Y先生が書いてあるとこしか読まない。カール・シュミットのことはよく知らないから、ちんぷんかんぷんなのだけども、こういう一節があってよかった。それは研究書の著者の人となりをY先生が語ったもので、「彼には真理に対する謙虚さがある」みたいな言い回しだった。
世に言う「真理」とか「本当のこと」みたいなものには、多くのまやかしがあったりもするのだが、単に「本当のこと」なんてないぜ!とうそぶくのは何となく寂しい。だって、まあホンマかわからんけども、それなりの手ごたえとか、自分がいいなと思えるものを目指している面も少なくとも僕にはあるから。けれど、そうそう簡単に「本当のこと」が降ってわくなんてものでもない。そういうこともあるかもしれないけれど、滅多にない。待ってても来ない。焦るとますます遠のく。
学問というのは、一応の手続きがあるらしい。ある考えや発見を提示したら批判的な検証や反論を受けなければならないということだ。学問の歴史は数千年あって、その中で色んな真実らしきものが出てきては消えている。こういう中で、「これが本当かもしれない!」と思って発言しても、簡単に色んな批判の砲火を浴びる。
だから、声高に「これが本当です!」みたいなことを云うよりも少しずつ積み重ねて遠慮なく質疑を受けてみたいなことをやりながら自分の考えを述べる方が説得的であるとY先生は言っているのかなと思った。それが結果的に「真実に対する感覚」を見失わない道であると。けどもっとそういうことより、素晴らしいことを云っているのかもしれないけど、それはもう少し時間をかけないとわからないかも(年取らないとあの良さはわからんで?)。うろ覚えだがシュミットという法学者は様々な業績を作ったと同時に、ナチスに理論的根拠を与えたとも云われる。だから「謙虚さ」というのはシュミットの悪魔的な凄さに対する免疫かもしれないとも思った。
さて、家から帰るときに家に置いてあった諸星大二郎のマンガ『孔子暗黒伝』を持ってきて、帰りの電車の中で読んでいた。このマンガは濃ゆいのである。仏陀も孔子も同じマンガの中で、出会うわけではないけどちょっと絡む。そういう八方破れがけっこう楽しめるのは何でかなあと。そんなものに理屈はないのだろうけど。
最近思うことは、自分の中に楽しいことや欲望を発見するとドキドキするのはなぜかということだ。そんなのにも理屈はないかもしれない。けれど今まで自分が蓄積した理屈では説明できないというのはけっこうドキドキするのかもしれないと思う。それがしょうもないとしても、実は今までの繰り返しだとしても、本人はそうなってしまうのを楽しんでいるのかもしれないと。それはある意味呪いだから、世界宗教はあの手この手で欲望を始末する考え方を作ったのかもしれない。だから、孔子と仏陀が一緒の紙面に出ても不思議はないのだ。(へりくつだ!)