Jan 04, 2008
年取らないとあの良さはわからんで
何とかほうほうの体でレポートが大筋で完成した。みなさま、あけましておめでとうございます。というわけで、実家に夕食を食べに行った。せっかくの正月なので帰省である。家に帰ると食卓に正月の残りのおでんやら何やらが出ていて、おいしくいただく。なぜか紅白の話になった。僕が寺尾聡が意外とよかったなどと云っていると母親は「寺尾さんも良かったけど、吾亦紅がよかった」という。僕が「でもあれはなあ」と難色を示していると母親は「年取らないとあの良さはわからんで」といってた。そうなのかもしれない。でも、どうなのかわかんない。
実家に大学の新聞が来ていた。もうすぐひとつ年をとるので、卒業してもう12年たつ。大学の新聞には、卒業後もあれこれお世話になったY先生が法学者カール・シュミットの研究書の書評を書いていて、面白く読んだ。はっきりいって大学の機関紙のほとんどの紙面って面白くないわけだから、Y先生が書いてあるとこしか読まない。カール・シュミットのことはよく知らないから、ちんぷんかんぷんなのだけども、こういう一節があってよかった。それは研究書の著者の人となりをY先生が語ったもので、「彼には真理に対する謙虚さがある」みたいな言い回しだった。
世に言う「真理」とか「本当のこと」みたいなものには、多くのまやかしがあったりもするのだが、単に「本当のこと」なんてないぜ!とうそぶくのは何となく寂しい。だって、まあホンマかわからんけども、それなりの手ごたえとか、自分がいいなと思えるものを目指している面も少なくとも僕にはあるから。けれど、そうそう簡単に「本当のこと」が降ってわくなんてものでもない。そういうこともあるかもしれないけれど、滅多にない。待ってても来ない。焦るとますます遠のく。
学問というのは、一応の手続きがあるらしい。ある考えや発見を提示したら批判的な検証や反論を受けなければならないということだ。学問の歴史は数千年あって、その中で色んな真実らしきものが出てきては消えている。こういう中で、「これが本当かもしれない!」と思って発言しても、簡単に色んな批判の砲火を浴びる。
だから、声高に「これが本当です!」みたいなことを云うよりも少しずつ積み重ねて遠慮なく質疑を受けてみたいなことをやりながら自分の考えを述べる方が説得的であるとY先生は言っているのかなと思った。それが結果的に「真実に対する感覚」を見失わない道であると。けどもっとそういうことより、素晴らしいことを云っているのかもしれないけど、それはもう少し時間をかけないとわからないかも(年取らないとあの良さはわからんで?)。うろ覚えだがシュミットという法学者は様々な業績を作ったと同時に、ナチスに理論的根拠を与えたとも云われる。だから「謙虚さ」というのはシュミットの悪魔的な凄さに対する免疫かもしれないとも思った。
さて、家から帰るときに家に置いてあった諸星大二郎のマンガ『孔子暗黒伝』を持ってきて、帰りの電車の中で読んでいた。このマンガは濃ゆいのである。仏陀も孔子も同じマンガの中で、出会うわけではないけどちょっと絡む。そういう八方破れがけっこう楽しめるのは何でかなあと。そんなものに理屈はないのだろうけど。
最近思うことは、自分の中に楽しいことや欲望を発見するとドキドキするのはなぜかということだ。そんなのにも理屈はないかもしれない。けれど今まで自分が蓄積した理屈では説明できないというのはけっこうドキドキするのかもしれないと思う。それがしょうもないとしても、実は今までの繰り返しだとしても、本人はそうなってしまうのを楽しんでいるのかもしれないと。それはある意味呪いだから、世界宗教はあの手この手で欲望を始末する考え方を作ったのかもしれない。だから、孔子と仏陀が一緒の紙面に出ても不思議はないのだ。(へりくつだ!)
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