Jul 19, 2009

マルテの手記  リルケ

Rilke

 「マルテの手記」はリルケの書いた唯一の長編小説です。モデルとなったのは、リルケが敬愛した「ヤコブセン」の国であるデンマークの「オプストフェルダー」というほとんど無名の作家であり、30歳前後で夭逝しています。
 しかし、リルケは彼の評伝小説を書いたわけではありません。またリルケの自伝小説でもありません。リルケのパリでの日々は、1903年にはじめて近代都市の渦のなかに投げ込まれたことから始まりますが、「マルテ」に仮託して、リルケのパリにおける孤独で貧しい日々や少年期の思い出などを書いたものでもありません。

 「マルテ」と「リルケ」の孤独な精神的危機は、どちらが運命として背負おうとしたのか?この小説は「死」におびえ、その「死」と引き換えに書かれたのではないか?と思えるほどに疲弊したものでした。そしてこの小説(あるいは長い散文の集合体?)のリルケ自身の自己評価も無残なものでした。
 しかし、この「マルテの手記」は、リルケの作家としての再出発でもあり、6年余の歳月を費やし、その後の「ドゥイノの悲歌」執筆の10年間に入る前には、2年の空白と精神的回復が必要なほどでした。そして結局「マルテの手記」は最後の小説となりました。晩年「ドゥイノの悲歌」と「オルフェイウスに捧げる14行の詩」によって、リルケはようやく高い境地を切り開いたのかもしれません。

 さて、「マルテの手記」は、第1部と2部に分けられているだけで、章分けは一切ありません。それは堅牢で隙間のない散文の連なりとなっていますので、読者にとって辛い読書となります。日付けすらない日記、断片的感想、書きつぶしの手紙の残片、散文詩めいた文章、少年期や過去の追想、備忘録の切れ端、今みている風物と人間などなどが順序も脈絡もなく書かれているのでした。小説という時間の流れや人間の心の移ろいなどを見出すことは不可能でした。

 リルケはこのような手法を自覚的にやりとげ、この1冊から読者に「マルテ像」を作り出してくれることを委ねたのだろうか?しかしここで大切なことは、「マルテの手記」は痛ましく孤独なものだと断定してしまうことは用心深く避けなければならない。「孤独」や「不安」というものは、文学を目指す若い未熟な者にとっては、麻薬のように魅惑的だからです。リルケは「マルテ」を通して、その時代に読者に伝えたかったことは「人間はいかに生きるか?」ということであって、人間の危うさ、死についての無力感、愛の哀しみではなかったと思います。

 それにしても、「マルテ」がパリで見たものは、どうしてこのように悲惨なものばかりなのだろう?行路病者、重たい体を運ぶ妊婦、街のヨードフォルムと油脂と不安の匂い、電車と自動車の騒音、火事場、瀕死の病人を乗せて駆ける馬車、突然目前で死ぬ酒場の男、廃屋、盲目の新聞売り、乞食、不具者・・・・・・近代都市パリの裏側とはこのようなものかもしれぬと、読者は奇妙に得心がいく。
 「マルテ」はこれらを能動的に見ることによって、それらすべてを受容したのだろう。そしてそこから「人間の死」について考えることに繋がってゆくようでした。

 最終部分で、「愛の女性たち」が書かれはじめることが救いとなる。サフォー、ベッティナ、マリアナ・アルコフォラド(ポルトガルの尼僧)、エロイーズ、アベローネ・・・・・・そして「ドゥイノの悲歌」にも登場する詩人の「ガスパラ・スタンパ」などなどです。

 「ル・アンドレス・ザロメ」の言葉を最後に引用します。

 『結局それ(マルテの手記)は絶えざる受苦であり、殉教であり、同時にまた人知れぬ昇天でもあった。」と・・・。


*   *   *

 わたくしが「ドゥイノの悲歌」に引き続き、この「マルテの手記」について書くことは、到底無理なことで、それでも書かずにいられなかったのは何故だろう?それは多分長い間「詩」というものを書き、かつ読んできたわたくし自身を、詩の源のようなところまで自分を引き戻してみたかったということかもしれません。新しい詩は産まれ続けています。読みきれないほどに・・・。しかし時を超えて読まれ続けるものたちにわたくしはどうしても遭いにゆきたいのです。

 (2007年・新潮文庫・57刷)
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