Jul 14, 2006

遠いうた 拾遺集  石原武 (2)

05-11-4yuugure2

  一章と二章では、現代の文明社会から遠く隔てられた「村」という存在を再考しつつ、「記憶」や「民族」さらに「シェークスピア」にまで再考を拡大させて、三章の「アメリカ・インディアンの遠いうた」に繋ごうとされているように思われました。この三章に収録された「うた」はこれだけで一冊の単行本になるほどの作品量でした。その「うた」は呪術であり、願い、狩り、戦い、子守唄、恋、レクイエム、生活する人間のさまざまな場面に欠かせない「うた」です。
 それらの「うた」にはたくさんの動物たちが登場し、月も星も太陽も、大地も水も石も草木も花もある。アメリカ・インディアンの世界感、死生感には境界がない。そしてすべての存在に「神」が宿っているのでした。
 そしてなんとたくさんの部族からの「うた」をすくいあげたことでしょう。さらにシャーマン・アレクシーの短編小説「アリゾナのフィニックスから死んだ親父を連れて」も収められています。研究者石原氏の地道で壮大なお仕事に、わたくしの拙い批評や感想など到底届くものではありませんが、あえて書くのは、(1)で書いたわたくしの「たじろぎ」を書きたいからでしょう。
 この「うた」の間には「間奏」と題された石原氏の一編の詩「インディアン・レッドの夜明け」が書かれています。抜粋してみましょう。

   (前略)
   朝風に瓶が倒れて
   飲み残しのワインが床に零れた
   赤い地図が広がって朝刊を染めていく
   世界はきな臭く
   赤い砂漠に狼煙が上がる
   砂埃の瓦礫の家々まで零れたワインは届かない
   鼻水垂らしたアサッドやマルムドまで
   暖かな芋は届かない
   私は朝食に蒸かした芋の皮を剥きバターを溶かす
   マルムドよ アサッドよ ご免な
   せめて丘を下りてくる山羊のご慈悲をと
   わたしは清ました顔で朝のお祈りをする
   (後略)

 さて、私事ですが、「アメリカ・インディアン」に注目したのは、一九八九年元旦の朝日新聞に掲載されたミヒャエル・エンデのエッセー「モモからのメッセージ」でした。  この数年前に、エンデは中米奥地の発掘調査に出かけたチームの報告書を読んでいました。調査団は荷役として屈強で寡黙なインディアンのグループを雇いました。日程表をたてていましたが、彼等は予定以上に早く日程をこなすことに成功しましたが、ふいにインディアンのグループは一斉に座り込み、一歩も先へ進もうとしない。調査団からの賃金の値上げ、叱責、脅しにも応じない。そしてまた突然彼等は歩き出す時が来た。何故か?「歩みが速すぎたので、ゼーレ(魂)が自分に追いつくのを待っていた。」というのだった。

 また、エンデの文化人類学者の友人からは、山頂で暮らすインディアンの村の水源は山の麓にある。毎日女性たちは往復一時間の道のりを水を運ぶというお話があった。賢明とは言いがたく、しかし「快適」という誘惑からはいつも遠い暮らしを疑いもなく続けることは、愚かとも言いがたいのではないか?  わたくしはその時に、天の運行速度と魂の運行速度とは同じではないのか?という思いにかられて、その彼等の世界から「生きる」ということの根源のようなものに辿り着きたいと思うようになっていました。

 さて(3)は「アイルランド」へ行きます。(つづく)
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