Jun 17, 2009
水元公園&南蔵院
6月になってから、何故か梅雨の前に水辺を歩きたいと思うようになった。どこにしようかと考えていた時に、古い記憶が蘇ってきました。そこは子供たちが10歳と8歳まで住んでいた東京都葛飾区に隣接する土地(三郷市)で、よく遊びに行っていた葛飾区と三郷市にまたがった「水元公園」と「南蔵院」でした。
今住んでいるのは同じ三郷市でも、葛飾区から最も遠い場所ですので、電車とバスを乗り継いで行きました。なんと20数年ぶりの訪問でした。
15日の天気予報は曇り、夜は雨でしたので決行。早く行かないと「花しょうぶ」が終ってしまうのです。どうやら間に合ったようでした。水元公園は都内の公園としてはめずらしく入園無料、釣りは自由という開放された、広大な公園です。
川辺で大きな鯉を釣りあげた方がいらして、お願いして写真を撮らせていただきました。大きさはご覧のとおりです。ご本人も写真を撮っていらっしゃいました。
「南蔵院」は「しばられ地蔵」で知られたお寺です。
Jun 10, 2009
トニオ・クレエゲル トオマス・マン
翻訳:実吉捷郎
トーマス・マン(1875~1955)の少年期から青年期までを書いた短編「トニオ・クレエゲル」再読。11ページ目のこの↓数行で、すでに涙がでてきました。
打ち明けていえば、トニオはハンス・ハンゼン(同級生の美しい男子)を愛していて、すでに多くの悩みを彼のためになめて来たのである。最も多く愛する者は、常に敗者であり、常に悩まなければならぬ――この素朴でしかも切ない教えを彼の14歳の魂はもはや人生から受け取っていた。
さらに金髪の美少女「インゲボルグ・ホルム」への恋も発展はみられず、トニオは社会的には恵まれた一族(名誉領事クレエゲル家)の少年でありながら、孤独と離れることはできず、夜の庭に立つ大きな栗の樹と語り合うのだった。無論生きていることの幸福感がなかったわけではないが。しかし「クレエゲル家」は衰退してゆきます。青年トニオは故郷を離れて暮しますが、文学者として生きてゆくことはできても、孤独からは逃れることはできませんでした。そこまでがこの小説です。
トーマス・マン自身の生涯は、幸福(と、言っていいのかな?)な家族も、不足ない経済力も手にいれています。
トオマス・マンの「トニオ・クレエゲル」を読みながら想起されるものは、ゲーテ(1749~1832)の「若きウェルテルの悩み」、リルケ(1875~1926)の「マルテの手記」・・・・・・この連想は無理ではないように思われる。「マン」と「リルケ」は同年に生まれています。80歳まで長生きしたのが「マン」であること、「リルケ」は10年かけて「ドゥイノの悲歌」を完成させて間もなく、51歳でスイスで亡くなっています。同じナチス時代を亡命という運命を辿ったこと、スイスにいたことなど、2人の共通性は多いのです。
さらに日本の老作家大江健三郎の「憂い顔の童子」を思い出したら、どこからかお叱りを受けるだろうか???
さて小説とは摩訶不思議な世界です。一見「自伝小説」に思わせる作品であっても、これはあくまでも小説なのです。事実ではありませぬ。これについては大江健三郎の小説「憂い顔の童子」から引用してみましょう。これは主人公の老作家「古義人」の母親の言葉です。(しつこく言いますが、これは小説です。誤解なきように。)
「古義人」の書いておりますのは小説です。小説はウソを書くものでしょう?ウソの世界を思い描くのでしょう?そうやないのですか?ホントウのことを書き記すのは小説よりほかのものやと思いますが・・・・・・
あなたも『不思議な国のアリス』や「星の王子さま』を読まれたでしょ?あれはわざわざ、実際にはなさそうな物語に作られておりますな?それでもこの世にあるものなしで書かれておるでしょうか?
「古義人」は小説を書いておるのですから。ウソを作っておるのですから。それではなぜ、本当にあったこと、あるものとまぎらわしいところを交ぜるのか、と御不審ですか?それはウソに力をあたえるためでしょうが!
以上が引用です。マンやゲーテやリルケと大江の違いといえば、ドイツの文学者たちが比較的若い時期に書いていますが、大江は老年になって書いているということです。これで多くの文学者たちが生涯に渡って「世界との違和」のなかで書き続けたのではないか?という思いは引き出せました。
「続く」と書きたいところですが、さてさてどうなることやら。。。
(2008年・第5刷・岩波文庫)
Jun 04, 2009
詩が生まれるとき 新川和江
これは新川和江さん自身の作品を挙げながら、その言葉が生まれる過程について書かれたエッセー集です。初出は2006年から2008年までの「朝日新聞」「「みすず」「詩人会議」などに掲載されたものの集成です。2006年に出版された「詩の履歴書・思潮社刊」の続編と見てもよいかもしれません。
おそれながら申し上げれば、わたくしは母からいのちをもらいましたが、「詩を書く者」としてのいのちの始めには、新川和江さんがいてくださったのだと、この本を読みながら再確認した次第です。(不肖の弟子ではありましたが、あしからず。)お教えくださった言葉は今でも覚えています。
①たくさん読みなさい。あなたが新しい表現だと思いこんだものが、実はすでにどなたかによって書かれたものかもしれないのです。
②師の後ばかり歩いてはいけません。いつの間にか横を歩いていて、そして前を歩いていたと言うところまで歩きなさい。
上記の教えを守れたのかどうかはわかりませんが、生意気にもわたくしは師に対して「自主卒業宣言?」をして、一人で書いてゆく決心をしたのは第1詩集「河辺の家」を出した後でした。小生意気な弟子でしたが、新川さんは今でもわたくしにはおおきな師です。この本はそれを再確認するものでした。以下にこころに留めておきたいところを引用(太字部分)いたします。
《チドメグサ》
個人的な傷や不幸を抱えていないわけではなかったが、長じて詩を書くようになってからも、その傷口を自分から暴いて衆目に晒すことは潔しとはしなかった。役者でもないのに、ひとつの詩をひとつの舞台として見立てているところがあった。私ひとりの悲哀や苦悩を、読んでくださる方に押しつけるのは、無礼であり不様でもある。社会的な事象をテーマにした作品であっても、直接傷を剔るのではなく、その傷口に貼るチドメグサを探しに行くのが、私の性分に合った〈詩の仕事〉だという思いがあった。
わたくしはこの教えは守ってきたように思います。たとえ書いてしまったとしても、最終的には詩集に収録しなかったし、それ以前に自ら捨てたと思います。詩を書いているわたくしの向こう側には、わずかでも読み手がいます。そこに届けるためには、詩はどのようなものであればいいのか?それを思わない日はありませんでした。
《散らばる活字》
植字工が原稿と首っ引きで活字を広い、版型のなかに配列していた。組み終えた版型を運ぼうとしていた植字工のひとりが私の前を通る時、誤ってその版型を取り落とした。(中略)50年後の今でも私は、詩を書こうとして言葉を選んでいる時、必ずといってよいほど、その時に受けた衝撃と、活字が四散した光景を思い出す。
壁から鋲をはづすように
空の一角から その星をはづす
すると満天に嵌めこまれてゐた星たちが
一挙に剥げ落ち
(そういう星が・・・・・・ より抜粋)
新川さんの印刷所での実体験がこの「そういう星が・・・・・・」の詩を産んでいます。いかに言葉を大切に思い、そのうつくしい詩行を組み立て、配置し、揺るぎない形にしていらしたのか、とてもよく理解できます。
昨今の合評会などで、仲間同士が無造作に「この行、あるいは連はいらないのではないか?」という批評が頻発しますが、書き手にとっては不用意に無造作に書いたものではないと思います。そこを認めた上で批評を始めなければならないように思います。この一冊はさまざまなことを考え直す、というよりもすでに教えられていたことを再確認できた読書時間でした。
(2009年・みすず書房刊)
Jun 01, 2009
老親看護は繰りかえされるのか?
5月23日の日記に「手紙 ~親愛なる子供たちへ~」を書きましたが、そのなかでわたくしは娘に向かってこう言いました。
・・・・・・そして娘に宣言しました。「お母さんが今、あなたの祖父母にしてあげていることと、同じことをお母さんにして欲しいとあなたには望んでいません。のたれ死にで結構です。」と。娘は沈黙していました。・・・・・・
詩人&作家の「伊藤比呂美」は現在カリフォルニア州に在住しつつ、日本の老親の介護のために、両国の往復生活を送っているとのことを、娘から聞きました。(←朝日新聞に掲載されていた記事だったそうですが、わたくしは読み落としました。)費用も体力も時間も過度に要する生活ですが、彼女はこのやり方を変えず、帰国することもなく続けるそうですね。そのお気持はわかるような気がしますが。
そして「伊藤比呂美」はやはり、こう言っていたそうです。「このようなことは自分の代で終わりにしたい。」と。これはわたくしの10数年前の感慨でした。全く同じことを彼女も10数年後におっしゃっている。娘はこのことをどう思っているだろうか?そして10数年前のわたくしの上記の言葉を覚えているだろうか?
娘よ。息子よ。どうか忘れないでいて欲しい。
「繰りかえしてはならない。」と・・・・・・。