Sep 17, 2008

日本語ぽこりぽこり  アーサー・ビナード

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 この「ぽこりぽこり」はどこからきたのか?半分まで読むと謎が解けます。

 吹井戸やぽこりぽこりと真桑瓜    夏目漱石

 筆者がこの句に出会ったのは国語辞典で引いた「真桑瓜」の一例だったようだが、彼はここから漱石の俳句の世界に入っていきますが、なんと。。。「吹井戸やぼこりぼこりと真桑瓜」という句が出てきました。どちらが正しいものだったのか、今でも謎だそうです。しかし筆者は「ぽ=PO」がお気に入りのようです。

 アーサー・ビナードは一九六七年、米国ミシガン州生まれ。二十歳の時にミラノでイタリア語を習得。一九九〇年、コルゲート大学英米文学部を卒業。卒論の時に日本語に出会い、魅せられて日本へ。日本語での詩作、翻訳、日本から米国への情報発信、ラジオのパーソナリティーなど多才な活躍をしています。奥様は詩人の木坂涼さん。彼女の「内助の功」も大きかったのではないでしょうか?この言語感覚における広い視野は、見事に楽しいエッセーになっていました。この本は、小学館のホームページの「Web日本語」に連載されたものの単行本化です。日本語を米国人の視点から見るわけですから、この新鮮さが楽しめます。

 日本語と米語とのはざまで、アーサー・ビナードがいかに困難(かな?)を楽しんでいるのかがこちらに笑いのさざなみのように伝播してきます。その上、やはり彼が米国人だな、と感じるのは、発言がはっきりとしていて小気味よいことでしょう。また日本語と米語との見事なクロスさえ感じられて、この語学力は羨ましいほどですが、これはアーサー・ビナード自身の積み上げた努力と、好奇心の賜物でしょうね。語学は楽しむもの。そして言葉は「橋をかけるもの」だということなのではないか、と思いました。

 最も面白いと思ったのは、日本人の書いた日本語の文章の「虚偽」を見抜く目でした。某新聞のコラム欄は、かつては小熊秀雄が書いた時代がありました。その時代に書かれたコラムの真剣さと、現在書かれているコラムとの大きな差を指摘していることでした。そしてアーサー・ビナードが日本語学校の教材として「小熊秀雄」の童話「焼かれた魚」に初めて出会い、彼の作品に深い感銘を受けていたのでした。これによって彼は翻訳に興味を持ったわけで、小熊の言葉の持つ力がよくわかりますね。

 貧しい育ちのなかから、努力して身代を築いた祖父は、彼に「いつまで日本でプー太郎をしているのか?」「物書きはいくら稼げるのか?」という手厳しい質問に、アーサー・ビナードはいつも「サバを読む」とか(^^)。。。

  (二〇〇五年・小学館刊)
Posted at 16:34 in book | WriteBacks (0) | Edit

Sep 10, 2008

画家と庭師とカンパーニュ

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監督:ジャン・ベッケル
原作:アンリ・クエコ
脚本:ジャン・ベッケル 、ジャン・コスモ 、ジャック・モネ



 老年はわれわれの顔よりも心に多くの皺を刻む。  モンテーニュ

 ある先輩詩人がブログで紹介なさっていた映画ですが、ずっと気になっているのに、なかなか腰が上がらない。もう上映期間の終わりも迫ってきましたので、「エイヤ!」と腰をあげて渋谷まで観に行ってきました。淡々としたストーリーでしたが、期待は裏切られませんでした。

 老境に入った孤高の画家「キャンバス」が、亡くなった父母の郷里の家に、都会に家族を置いたまま帰郷しますが、家は荒れ果てていました。まず庭の手入れのために庭師を呼びますが、その庭師「ジャルダン」は、もと国鉄職員で退職後に庭師をやっているのでした。その二人はなんと小学生の時のクラスメートで、一緒に担任教師に悪戯をした仲だったのです。

 ヌード・モデルに常に恋してしまう画家「キャンバス」は、ついに妻から離婚を迫られていますが、一向にその悪癖は直らない。しかも画家の世界でも孤高。さみしい画家です。
 妻を唯一大切な人生の伴侶として生きてきた庭師「ジャルダン」とは、対照的に描きだされていますが、この二人の友情は、互いの生き方の相違を知り、今までの人生を語りあいながら、二人は共にその家全体にいのちを吹き込もうとしたのです。なつかしい思い出を家のあちこちに見つけながら、画家はみずからの魂のルーツにまで辿りつくのでした。二人の日々は微笑みに満ちていました。

 しかし、フランスの田舎町の穏やかな陽ざしと、緑豊かな自然のなかでの時間は、あっけなく終わってしまいます。「キャンバス」が急いだ医師の手配も間に合わず、庭師「ジャルダン」は末期癌で亡くなりました。庭師が最期まで画家に頼んだことは「もっと明るい絵を。もっと身近なものを。」ということでした。

 最期のシーンは「キャンバス」の展覧会。そこに並んだ絵画は、すべて「ジャルダン」が手にしたものばかりでした。草刈鎌、ナイフ、ロープ、愛用の赤いスクーターなどなど、そして庭師の着衣の妻、庭に咲いた花、実った野菜や果実でした。画家はまた新しいスタートラインに立ったのではないでしょうか。

Posted at 20:28 in movie | WriteBacks (0) | Edit

Sep 04, 2008

日本語で一番大事なもの 大野晋×丸谷才一

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 これは、今は亡き国語学者「大野晋」と、作家、評論家、翻訳家である「丸谷才一」との日本語の文法解釈と歴史についての対談集です。丸谷才一が聞き手となり、大野晋が応えるという形になっています。話題の初めは「式亭三馬」の「浮世風呂」でした。その登場人物である本居信仰の女性国学者「鴨子」と「鳧子」との珍妙な会話からはじまりました。もちろんこの女性二人は「古語」の「かも」「けり」から付けられた名前ですね(^^)。

 日本語の文法の歴史は、遡ればきりがないのですが、以下のこの三人の学者が主に「大野晋」の先達学者として挙げられています。

山田孝雄(一八七五年~一九八五年)
松下大三郎(一八七八年~一九三五年)
橋本進吉(一八八二年~一九四五年)←この橋本文法が今日の学校文法になっています。

ちなみに。。
大野晋(一九一九年~二〇〇八年)
丸谷才一(一九二五年生まれ)

 さらに日本語の文法に影響を与えたものが「英語教育」だそうです。これには「主語」「助詞」「述語」「動詞」などが必須であるという文法を日本語にも要求されてくる結果となりました。ここで少し、お二人の面白い対話を引用してみます。

大野:日本語では、「君は」と言うと「うなぎだ」と答える、うどんの話なら「君は」と言うと、「かけ」とか、「おかめ」とか、「きつね」とか返事すれば済む。

丸谷:ある雑誌を読んでいましたら、自然科学の先生が、日本人は「僕はうなぎだ」などという野蛮な言語を使っていると、日本語をさんざんに罵っているんですね(笑)。それは日本語が野蛮なんではなくて、それを文法的に正しく把握しない自然科学の先生の方がむしろ――野蛮とは思わないけれども――間違っている。


 このような丁々発止の対談のなかで、日本語の文法の歴史と解釈が、さまざまな和歌からはじまり、口語体の現代短歌までを例に挙げながら語られていきます。まさにこれ自体が辞書さながらの様相を呈しています。図書館で借りて「さようなら」と言えるような本ではないですね。最後の大野晋の替え歌が楽しい。

おろかなるなみだ袖に玉はなすわれはせきあへずたぎつせなれば
 (古今集・小野小町)

おろかなるなみだ袖に玉と散るわれはせきあえずまるでナイアガラ

 ↑これは大野晋が「俵万智」風に作り換えたものですが、ここでは「ぞ」「が」になるまでの言葉の変遷が語られているのでした。「たぎつせ」は激流のことですが、そこを「ナイアガラ」として故意の誤訳(?)を楽しんでいました。

 とにもかくにも、この一冊の対談集はまるごと面白いものでした。飽きずに読めますが、絶対に全部が覚えられるものではありませぬ。肉声を聞くような楽しい辞典と思いながら、身近に置いておくものだと思います。

 (昭和六二年・中央公論社刊)
Posted at 13:06 in book | WriteBacks (0) | Edit

Sep 03, 2008

フェルメール展・光の天才画家とデルフトの巨匠たち

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 暑さのぶりかえした二日午後の上野公園を歩くと、樹々の蝉時雨が耳にあふれました。上野都美術館にて「フェルメール展・光の天才画家とデルフトの巨匠たち」を観てきました。四〇点という展示ですので、美術展としては少ないものでしたが、おかげでゆっくりと観ることができました。混んでいることも心配しましたが、行列ができたり、観るのに苦労するほどではありませんでした。

   四〇点の内容は・・・・・・
 ヨハネス・フェルメール(一六三二~一六七五)作品は七点。
 ピエール・デ・ホーホ(一六二九~一六八四)作品は八点。
 カレル・ファブリティウス(一六二二~一六五八)作品は五点。

 後の二〇点はモロモロ・・・すべてデルフトの画家たちです。

 さて、デルフトの画家たちの生まれた時代背景とはどのようなものだったでしょうか?近代西洋史上、もっとも長い戦争(一五六八年~一六四八年)で、スペインから勝ち取った、プロテスタントのオランダ共和国は、移民を迎えることで人口増加をはかり、すべてのキリスト教国の中で、最も裕福な国家となります。海洋事業の中枢となって、それは日本の出島にまで及ぶ時代でした。こうしてオランダは、文化、経済の頂点にありましたが、一九七二年にその繁栄は終わりました。この約四半世紀が、「デルフト絵画」の最盛期だったわけです。

 まず、四〇点の絵画全体の画風が似ていることに気付かされます。そして宗教画がほとんど姿を消した(教会の内部や外観の絵画はありますが。)こと。デルフトの町並と、そこに暮す庶民(特権階級ではなく。)の様子、家々のなかの構図など。
 そして、フェルメールたちの人物画のほとんどが、左側に格子窓や、ステンドグラスが描かれ、そこから射しこむ《光》に浮き上がるような構図であったこと。以前「国立新美術館」で観た「牛乳を注ぐ女」にも観られるものと同じです。当時の絵の具の独特な《光》によって、デルフトの「光の画家」を生み出したようですね。

 それから、この時代の文化というべきか、流行というべきか、「手紙」が盛んだったことが伺えます。窓辺の明かりで手紙を書いたり、あるいは届いた手紙を読んでいる女性の姿がいくつか描かれていますね。インターネット時代を生きるわたくしたちの通信時間との大きな隔たりを感じつつ、その手紙の持つ時間を思ってみるのでした。
Posted at 15:18 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
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