Jul 19, 2008
悪童日記 アゴタ・クリストフ
翻訳:堀茂樹
「アゴタ・クリストフ」はハンガリーのオーストリアとの国境近くの村に生まれ育ち、ハンガリー動乱(一九五六年)の折に亡命して以来、スイスで暮しているようです。この「悪童日記」は彼女の処女小説です。フランス語で書かれ、一九八六年パリのスイユ社から世に送り出されました。その後、日本で翻訳出版されたのは一九九一年となっています。原題は「大きな帳面」となっているように、双子の少年が記した六二章の日記形式になっているフィクション小説です。
主人公の双子の少年は「大きな町=ハンガリーのブタペスト?」から、母親に連れられて、「小さな町=オーストリアとの国境にごく近いハンガリーの農村。母方の祖母の農家」へやってくることから、この物語は始まります。父親は戦場にいる。つまり「疎開」ですね。母親は「大きな町」に一人で帰ります。この母娘は十年も会うことがなかった。少年たちと祖母とは初めて出会い、共に暮すことになったのです。
祖母は近隣から「魔女」とも「夫殺し」とも噂され、入浴も洗濯もせず、ケチな生活をしている農婦です。母親の愛に守られ、清潔な生活をしていた少年たちの過酷な生活が始まるのでした。
しかし少年たちは、この過酷ともいえる生活のなかで、逞しく、賢く、自立してゆくのです。まず文字の勉強は、「大きな町」から携えてきた父親の大辞典と、祖母の家の屋根裏部屋にあった聖書をお互いに熟読します。からだを鍛え、農作業を覚え、お金を稼ぐ方法を覚え、どのような過酷な状況にも生き抜ける心身を自力で育てるのでした。それは大人ですらできないであろうと思われる過酷さです。これはちょっと表現しがたいものがあります。人間の死すらも冷静に見つめ、迎えに来た母をその場で亡くし、祖母の死への願いを冷静に実行し、捕虜収容所から逃げてきた父親の国境を越える逃亡計画にも双子の少年は手を貸しながら、父親は地雷で死ぬ。死者が出たあとでは、その直後の逃亡者は逃げ切れる。双子のどちらかが。。。
衝撃的な小説ではあるが、読後に救いのない思いに陥らなかったのは何故だろうか?それは双子の少年の並はずれた状況把握、判断の見事さにあるのだろうか?そして彼等は双子であることによって、お互いのどちらかが生き残ることに賭けたのでしょうか?人間はここまで強靭にも残酷にもなれる。しかしそこは間違っているのではないのか?とこちらから主張できないほどの少年の強靭さを見事に描き出した小説であったと思います。この「悪童日記」には続編が二冊あるようです。少年たちのその後の生き方をいずれ読んでみたいと思います。
(一九九一年初版・一九九二年八刷・早川書房刊)
Jul 18, 2008
コロー 光と追憶の変奏曲
《ヴィル=ダヴレー》《真珠の女》
七月十六日快晴。上野、国立西洋美術館にて。
庭には真っ白なムクゲ、清い香りのクチナシが咲いていました。
ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(一七九六年~一八七五年)は十九世紀のフランスの画家。パリの裕福な織物商人の子として生まれる。コローは、画家になることを反対していた父親の許しをようやく得て、一八二二年、二六歳の時、当時のアカデミックな風景画家アシール=エトナ・ミシャロンやジャン=ヴィクトール・ベルタンに師事する。
コローは、森や湖の風景画家のみならず、「真珠の女」のような人物画家として優れた作品もある。一八二五年から計三度イタリアへ旅行し、イタリア絵画の明るい光と色彩にも影響を受けている。この時代は鉄道が発達して「旅行」が人々の文化を変えていった。もちろん恵まれた者たちだけだろう。コローは大変恵まれた環境に常にいられた画家だったのではないだろうか?
展示された作品は、ルーヴル美術館所蔵のコローの代表作を中心に、初期から後期までの作品、そして折々に描いた人物画。
コローは、「最後の古典主義者にして最初の近代主義者」と言われています。イタリアとフランスの風景画の古典的伝統のなかで絵を習得し、オランダの写実主義の巨匠たちやイギリス画家からも影響を受けました。また音楽、演劇などにも無縁ではなかった画家でした。一八六〇年以来、印象派からキュビストまで、世代をこえた画家たちがコローの作品を研究し、愛好しています。モネ、ルノワール、セザンヌ、ブラック、マティス、ピカソ、カンディンスキーなどなど。
《モルトフォンテーヌの思い出》
まぁ。ざっと書いてみましたが、なによりもわたくしが「コロー」の絵画を観たかったということに尽きますね(^^)。たとえばコローの風景画(最低でも、前後左右で四枚。笑。)に囲まれた部屋で暮せたらどんなに幸せだろうか?と夢のようなことを思うのです。その四点を選ぶなら「ヴィル=ダブレー」「モルトフォンテーヌの思い出」「ヴィル=ダヴレー 水門のそばの釣り人」「少年と山羊」・・・・・・。何故コローの絵画に惹かれたのだろうか?それは絵画が主張をしない。そして誘うからでしょう。その「ヴィル=ダブレー」の小道に誘われて、そっと足を踏み出したいような気持になるからでしょう。
「真珠の女」を見ていますと、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」に使われている絵の具の色によく似ているように思えました。これは確たる証拠もないのですが、絵の具の光沢感のようなものです。
招待状を下さったお方に感謝いたします。
Jul 16, 2008
ホテル・ルワンダ
テリー・ジョージ:監督
(イギリス・イタリア・南アフリカ共和国合作・二〇〇四年制作)
キャスト
ドン・チードル:ポール・ルセサバギナ
ソフィー・オコネドー:タチアナ・ルセサバギナ
ニック・ノルティ:オリバー大佐
ホアキン・フェニックス:ジャック・ダグリッシュ
ジャン・レノ:テレンス社長
ファナ・モコエナ:ビジムング将軍
この映画はアフリカ版「シンドラーのリスト」と言われている。
映画を観たあとで、人間が生命の危機と殺戮と騒乱のなかで、自らの生き方をどのように見定め、生きてゆくのか?こうした根源的な問いかけをされた思いがいたしました。人間は幸福で穏やかな日々を生きることがなによりなことではあるが、何故か人間の真実が正しくあぶりだされるのは、こうした極限状況であることは皮肉なことだと思います。
撮影はほとんど南アフリカで行われた。一九九四年アフリカ中部にあるルワンダで、ツチ族とフツ族の民族対立による武力衝突「ルワンダ紛争」が勃発した。フツ族過激派がツチ族やフツ族の穏健派を百二十万人以上虐殺するという状況の中、一二〇〇名以上を自分が働いていたホテルに匿ったホテル支配人の「ポール・ルセサバギナ(Paul Rusesabagina)」の実話です。
「ポール・ルセサバギナ」は「フツ族」、その妻は「ツチ族」、このはざまでの葛藤を超えて、彼はホテルにツチ族やフツ族の難民をともに受け入れることを決断する。有名ホテルとしてのステータスを盾に人々を過激派からかばい続ける一方で、ホテルの支配人として培った人間関係を利用して彼は一二六八人の難民の命を救うことに成功する。
ここで、非常に感動的なシーンが展開する。「ポール・ルセサバギナ」は単に難民を守ったわけではない。ホテルにある電話をすべて難民たちに開放し、難民たちに親戚、友人、知人たちにこの惨状を可能な限り伝言させたことだった。これは決して無駄な計画にはならなかった。素朴で平凡な人間たちの力の結集は世論を動かす力になりうるということを伝えていました。
さまざまな苦難を丹念に誠実にクリアーしながら、ルセサバギナ一家とホテルの難民たちがツチ族反乱軍の前線を越えて難民キャンプにたどり着き、そこからタンザニアへと出発するところで映画は終わる。
「フツ族」と「ツチ族」は同じ言語を使い、農耕民族であるか遊牧民族であるかという違いでしかなく、白人による植民地支配のはじまりによって、これが二つの部族対立を生んだのではないか?植民地支配は終わっても、かつてのゆるやかな部族関係は再び戻ることはない。いつでも思うことだが、人間の歴史は侵略の歴史であり、そこで失われた素朴な部族意識や信仰、言語はふたたび戻ることはない。
Jul 08, 2008
密会 ウィリアム・トレヴァー
翻訳:中野恵津子
ウィリアム・トレヴァーは、一九二八年、アイルランドのコーク州生まれ。プロテスタントのイングランド系アイルランド人(アングロアイリッシュ=大英帝国からの入植者の子孫)に属する。トリニティ・カレッジ・ダブリン卒業。一九五八年より五十年間、長編、中篇、短編小説、戯曲、脚本、エッセーなど、膨大な作品があります。
これは表題「密会」を含む、十二編の短編集です。最後に置かれた「密会」の最終部分が、この本全体の一環したテーマだと思われます。
『今日、愛はなにも壊されなかった。彼らは愛を抱きつつ、離れてゆき、お互いから立ち去った。未来は、今二人が思っているほど暗いものではないことに気づかずに。未来にはまだ、彼らのその寡黙な繊細さがあり、そしてまだ、しばらくのあいだ愛し合ったときの彼ら自身がいるだろう。』
これは妻のいる男性と、夫のいる女性の束の間の地味な恋物語です。しかしここで気付かされることは、男性は妻を捨てなかったこと。しかし女性は夫と別れて、恋人との時間を優先して生きようとしたこと。しかし二人の別れはしずかに訪れるのでした。互いに憎みあうこともなく。。。
十二編はすべてはありふれたお話で、決して輝くような明るさもないものでしたが、人間が生きて、愛して、死んでゆく人生のなかに潜む「孤独」と「愛」と「信頼」が静かに流れ、「裏切り」や「殺戮」のないかそけき世界のような一冊でした。
「密会」をエピローグだとすれば、冒頭に置かれた一編「死者とともに」は、この短編集のプロローグかもしれません。
愛情の薄い(あるいは夫の打算か?)二十三年間の夫婦生活ののちに、夫は死んだ。その深夜に、妻エミリーのもとに、慈善活動の「マリア団」の団員である中年の独身のゲラティー姉妹が訪問する。彼女たちの奉仕活動は、死にゆくひとの最期に付き添うことであったのだが、それには間にあわず、妻エミリーの告白を聞くことになる。
三人の女性の会話が深夜に繰り広げられることになる。初めて出会う姉妹に、夫の抑圧から解放されたようなエミリーの無防備な告白はこわいものがありました。それは明け方近くまで続き、エミリーとゲラティー姉妹の間に言葉の橋はかかり、救いはあったのだろうか?
二人を送り出し、そのまま眠らずに葬儀屋を待つエミリーは気付く。亡霊のように深夜にあらわれた、あのゲラティー姉妹はエミリー自身ではなかったのか?と。。。
* * *
人と人とが巡りあい、共に生きることは、苦しみを伴う幸福であるかもしれません。しかし、このことに真剣に向きあって生きてみなければ、結局なにも掴むことはできないでしょう。愛するということは、すべてを受け入れることからはじまるのではないだろうか。
(二〇〇八年・新潮社刊)
Jul 01, 2008
歩荷
歩荷くる山を引き摺るやうに来る 加藤峰子
本日富士山のお山開き。夏山登山がシーズンを迎える。歩荷(ぼっか)とは、ヒマラヤ登山のシェルパ族や、新田次郎の小説『強力(ごうりき)伝』で登場する荷物を背負って山を越えたり、山小屋へ物資を届けたりする職業である。現在ではヘリコプターが資材運搬の主流となり、歩荷は山岳部の学生や登山家がトレーニングを兼ねて行っているというが、以前は過酷な労働の最たるものだった。実在のモデルが存在する『強力伝』で、富士山の強力小宮正作が白馬岳山頂に運んだ方位盤は50貫目(187.5kg)とあり、馬でさえ荷を運ぶときの上限は30貫目(112.5kg)だったことを思うと、超人と呼べる肉体が必要な職業だろう。立山連峰で歩荷の経験のある舅に当時の思い出を聞くと、ぽつりと「一回に一升の弁当がなくなる」と言った。歩荷の経験が無口にさせたのか、無口でなければ歩荷は勤まらないのか定かではないが、口が重いこともこの職業に共通した大きな特徴であるように思われる。食べては歩く、これをひたすらに繰り返し、這うように進む。眼下に広がるすばらしい景色や、澄んだ空気とはまったく関係なく、道が続けば歩き、終われば目的地なのだ。掲句では上五の「くる」で職業人としての歩荷を描写し、さらに下五で繰り返す「来る」でその存在は徐々に大きくなって迫り、容易に声を掛けることさえためらわれる様子が感じられる。歩荷は山そのもの、まるで山に存在する動くこぶのような現象となって、作者の目の前をずっしりと通り過ぎて行ったのだろう。『ジェンダー論』(2008)所収。(土肥あき子)
これは七月一日の「増殖する俳句歳時記」のコピーをいただきました。このあき子さんの解説から思い出すことがあまりにもたくさんありました。それはすべてお聞きしたり、読んだりしたものですがちょっとメモを書いてみます。
★まず思い出したことは【駄】 です。
(1)荷物を運ぶ馬。
(2)馬または牛一頭に背負わせるだけの分量。助数詞的に用いる。
「千駄木」「千駄ヶ谷」などという地名はおそらくここからきていると教えて下さったのは先輩詩人でした。そしてそのような地名だったところは、かつては雨乞いのために火が焚かれた場所であろうということでした。
★「一回に一升の弁当がなくなる」で思い出したこと。
遠縁の漁師のおじさんのお話。漁に出る日にはお風呂の木製の桶(浴槽ではなく。笑。)に似た大きなお弁当にご飯を入れて持っていくそうです。それからお醤油。釣り上げた魚を船上でお刺身にして、食事するそうです。
★「強力」「歩荷」で思い出したこと。これが一番素敵なお話。
一九八九年元旦の朝日新聞には、ミヒャエル・エンデの「モモからのメッセージ」が掲載されました。今でも大事に持っています。そこに書かれていたお話です。
中米奥地の発掘調査チームの報告よりミヒャエル・エンデが特記した部分。調査チームは必要な機器などの荷物一式を携行するためにインディアンのグループを雇いました。調査作業の全工程には完璧な日程表ができていました。初日から四日間は、そのプログラムの予想以上にはかどりました。
ところが五日目になって、インディアンたちは、全員が輪になって地べたに座り込んでしまって動かない。調査団が叱っても、脅しても、賃金アップを提案しても動かない。しかし彼等は二日後には黙って立ち上がり、荷物を担ぎ、予定の道を前進しはじめる。その理由はなんだったのか?彼等の応えはこうでした。
「はじめの歩みが速すぎたのでね。」
「わたしらの魂(ゼーレ)が、あとから追いつくのを待っておらねばなりませんでした。」
人間の外的時間と内的時間の大きな差異、すでに十九年前に書かれていたことでした。