Feb 25, 2007

マグヌス  シルヴィー・ジェルマン  辻由実訳

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 この本に贈られた賞についてまず記しておきます。フランスの文学賞に「ゴンクール賞」がありますが、もう一つ注目したいものに「高校生ゴンクール賞」があるのです。この小説は二〇〇五年にその「高校生ゴンクール賞」を受賞しています。毎年約二千人の高校生によって決定される賞で、これは日本では考えられないような試みですが、この賞は今年で二十年の歴史をもつもののようです。はなから「賞」などという話題で申し訳ありませんが、「高校生」ということにわたくしはちょっと驚いたのでした。

 この物語は第二次世界大戦末期のドイツから始まります。五歳の少年がひどい病気にかかり、高熱によって言葉も記憶も焼き尽くされ、母親は少年の過去の五年を埋めるように、言葉によってその少年をもう一度産み直そうとするのでした。父親は熱狂的なナチス党員。その時の少年の名前は「フランツ」だった。

 敗戦と同時に一家の逃亡生活、父親は亡命先で生死不明、母親は病死、「フランツ」を引き取ったのは母親の兄。かつて彼はその両親とは全く異なる生き方を選び、イギリスに亡命した牧師であり、妻はユダヤ人だった。ここで彼の名前は「アダム」となる。

 そして二十歳には彼の意志によって「マグヌス」と名乗ることになった。この名前は記憶を失くした時から抱いていたクマのぬいぐるみの名前。大人から詰め込まれた記憶ではない、唯一の彼の本当の記憶を共にしたのはこの「マグヌス」だけだったのではないでしょうか?なにも語らない者こそ真実であると。。。

 「マグヌス」と名乗った時から、彼の人生は自らの意志によって歩き出すことになるのですが、彼のもっとも幸福と思われた愛の成就も、その不幸な運命によって失われる。しかし最後には、彼は丹念に孤独を生きることに人間の本来の姿を見出したように思えてならない。

 この小説の構成も興味深い。「章」の変わる毎に「断片=フラグマン」、「注記=ノチュール」、「絶唱=セカンス」、「挿入記=アンテルカレール」が挿入されていて、そこに小説の補足説明、歴史的背景、詩歌の引用などがなされて、この小説に歴史的な意味合いとファンタジー性をもたせて、ふくらみのある作品となっているように思えました。

  旅立とう! 旅立とう! これぞ生きている者の言葉!
  旅立とう! 旅立とう! これぞ放蕩者の言葉!


  (サン=ジョン・ペルス  「風」)

 この本を閉じた時に、わたくしの耳にいのちの羽音が聴こえてきました。それは「マグヌス」がこの物語のなかで最後に出会い、その死も見送ることになった、戸外を遊ぶ老いた修道士であり養蜂家のジャン士がわたくしに残したメッセージだったようです。それは多分、いのちは導かれるべきものによって導かれ、その死もまたそのように訪れる。なにも恐れるものはないと。。。

 (二〇〇六年・みすず書房刊)
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Feb 20, 2007

ハルビンの詩がきこえる  加藤淑子著 加藤登紀子編

harubin

 加藤淑子は、加藤登紀子(歌手)の母上です。この母上が一九三五年四月から、夫幸四郎と共に過ごし、三人の子供に恵まれて、敗戦によって日本に引揚げて来るまでの旧満州国ハルビンでの十一年間の思い出を綴ったものです。このなかに登紀子の作詞作曲した歌「遠い祖国」が数箇所に挿入されています。冒頭の四行を引用してみます。その下にわたくしの詩「河辺の家」の一部も引用します。登紀子とわたくしの年齢差は一年足らず、わたしがわずかに遅い生まれのようです。共に三番目の子供であり、「ハルビン」の具体的な記憶がない年齢です。申し遅れましたが、わたくしもハルビン生まれです。この本を読み、当時の古い地図を見ていますと、この加藤一家とわたくしたち一家はどこかですれちがっているのではないか、と思うくらい共通するのです。


  生まれた街の話をしよう
  そこは遠い北の街
  戦争の中で生まれてそして
  幼い日に追われた街   (加藤登紀子・遠い祖国)


  占領国の子として そこに産まれ
  敗戦国の子として そこを追われた
  その家は いつも
  記憶の届かないところに佇んでいた   (高田昭子・河辺の家)


 おわかり頂けるでしょうか?その時わたくし達の親の世代は占領者だったということです。財部鳥子の小説「天府 冥府・二〇〇五年・講談社刊」にもありますように、占領者としての「天府」のような生活(この小説の舞台となるのはジャムスですが。)、「冥府」のような敗戦国民としての異国の生活がそこにはあったということです。

 それでも何故あのハルビンは、そこで暮した人々の心に美しい街として記憶に残り続けるのでしょうか?列車が走っても走っても続く同じ風景の続く広大な大地、そこに落ちてゆく大きな赤い夕日、温かい人々との思い出、杏や林檎の樹、おいしい食べ物、キタイスカヤ通りの石畳、風と光、スンガリー河の流れ、太陽島の休日。。。

 加藤淑子の書くさまざまなお話のほとんどは、わたくしの幼い日々からずっと母が語ってくれたことと重なりました。たとえばこんなこと。。。

●牛乳はしぼりたてのものなので、一回沸騰させてから飲んだり、保存したりしたこと。

●「ペチカ=ロシア語」をわたくしの母は「オンドル=朝鮮語」と言っていましたが、これは暖炉の熱を利用した壁床暖房です。零下二〇度、三〇度となる酷寒のハルビンでは、縦に細長い形の二重窓とともに重要な暖房だったのです。燃料は薪と石炭でした。

●上記のオンドルは調理用コンロにもなるのですが、朝は火が焚けるまでに時間がかかるので、街にはお湯売りが(日本の納豆売りのように。)いつもいました。

 このような母としてのハルビンでの日々の記述の共通性は書いたらきりがありません。たった一つ、加藤一家とわたくしたち一家と違っていたことは、敗戦後約二ヶ月くらいで、わたくしの父は家族のもとに命の危険をおかしてまで、釜山からハルビンまで帰ってくることができたこと。そして酷寒のハルビンでは、貧しい敗戦国民となった一家が暮してゆくのは困難だと判断した父が、すぐに新京に南下して、そこで働きながら引揚げの日を待ったことでした。この引揚げ船の出る場所も加藤一家と同じく「葫蘆(コロ)島」でした。そこまでの列車が「無蓋車」であったことも同じでしたが、わたくしの父が団長を務めた引揚げ団では、無蓋車は一両五十人の割り当て、真夏なので直射日光を遮蔽するため、みんなで日除けを作ったり、トイレを作ったりして出発の日を待ったそうです。

 どうもこの本の紹介ではなかったようですね。あまりにも共通することが多くて、わたくし事ばかり書きましたことをお詫びいたします。最後に加藤淑子の素晴らしい言葉をご紹介して、これを終わりといたします。

 『人は生きるためにはどんな限界も超えることができる。』

 (二〇〇六年・藤原書店刊)
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Feb 09, 2007

兄中原中也と祖先たち   中原思郎

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 わたくしの昨年の十一月二六日の日記に書いてありますように、一九七三年には講談社より、「私の上に降る雪は・わが子中也を語る 中原フク述・村上護編」が出版されています。この本は四男思郎によってその三年前に出版されたものです。前半の兄の中也に関する記述においては大岡昇平などの協力が大きいのですが、後半の「祖先」に関する記述は天正年間(一五七三年)まで遡って書かれておりますので、この協力者は膨大な方々に及びます。「祖先」の後半部からは「「近い祖先」となって中也たちの祖父母からのことについて書かれています。

   わたくしが古本まで取り寄せて読んだのは、一つの点だけ確認したかったことがあったのです。思郎がこの本を書く時に、「その話はやめて欲しい。」と母親のフクが頼んだ、ある事件です。しかし思郎は「それでも兄貴がぼくにそう話しておったから。」と答えたそうです。フクは口述のなかではこの事実を否定しています。これが中也独自のアイロニーであったのか、実話であるのかは知るよしもありません。しかしこの本では思郎は書いていました。それは中也へのお仕置きとして、厳格な父親謙助が中也を庭の松の木に吊るしたという事件です。しかしこれは母親フクと祖母によって行われたことのようでした。

   何故わたくしがこれに拘るのかはちょっと説明できないのですが、「恐怖」への感受性においては、子供は大人の何十倍ももっているのではないのか?という考え方からかもしれません。だから子供だけは大人に守られるべき時間を充分許されていると思うのです。

  わが生は、下手な植木師らに
  あまりに夙く、手を入れられた悲しさよ!
  由来わが血の大方は
  頭にのぼり、煮え返り、滾り泡だつ。

  (これは中也の詩「神童」の一節です。)

 極論が許されるなら、中原家の生命は母親フクに集約されているかのようです。フクは百歳近くまで生きましたので、養父母、実母、夫、息子、孫にいたるまでの臨終をみとっているのです。思郎の言葉を引用すれば「中原家はすなわちフクであり、フクが生きている限り中原家はある。」のだと。。。

 中也の死については、思郎は「中原家から『聖なる無頼』が消えた。」と記述しておりますが、母フクは中原中也の詩碑の除幕式において「チュウちゃんが、中原家四百年の歴史のなかで一番偉かったのじゃろうか。」と言い、中也の写真の前に打伏して動かなかったと。。。

 (一九七〇年・審美社刊)
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Feb 02, 2007

祭り裏  島尾ミホ

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 これは島尾ミホの少女期の回想録と受け取っていいのだろうか。しかしこの七編の随筆は、そのまま短編小説とも言えそうです。舞台は郷里の奄美大島の南端にある「加計呂麻島=かけろま島」です。そこの「長」の娘として、特権階級の生活者としての記録ではありますが、島の風景、日常、まつりごと、学校生活、子供たち、大人たち、などなどがおおらかに活写されていまして、それは輝くような開放された筆力でした。

 夫である「島尾敏雄」の「死の棘」は衝撃的な私小説であり、そこに描き出された妻の有り様には、女性として大変に心惹かれるものがありました。この「死の棘」が書かれる過程で、妻は何度も夫の原稿のチェックをしていたとのこと。それはむしろ島尾敏雄の執筆に対する躊躇を払いのけるものではなかったのかと思われます。

 また、この本、さらに以前に書かれた「海辺の生と死」など、島尾ミホの本の出版に対して、我が事以上に夫の敏雄が興奮し、「あとがき」を書き、喜んだということも、この夫婦の間を流れる奔流のような「愛」を思うのでした。この「祭り裏」の出版打合せには立ち会えたものの、残念ながら出版される時期には島尾敏雄は亡くなっています。

 島尾ミホは、多分一九二〇年生まれ、一九四四年に、海軍特攻隊隊長として加計呂麻島に赴任した島尾敏雄と出会っています。その時ミホは小学校教員でした。


 【祭り裏】
 猛暑をやり過ごして、八月中頃の島には実りの季節が訪れて、さまざまな村祭りが行われる。会話はすべてこの土地の方言をカタカナで表記して、脇に訳が付けられている。  この祭りの華やぎと喧騒の裏側で、血族の命がけの争いという、荒々しい事件が描かれています。この時代のこの土地のおおらかさを表すように「癩病やみのニジロおじ」もそこに特殊な存在として描かれていないことでした。この時代には癩者の「強制隔離」があったはずです。

 この点につきましては、F氏にお願いしてご意見を頂きましたので、追記いたします。氏に感謝致します。
 『偏狭では中央の及ばない文化があったのだと思います。地方名は忘れたけれど、療養所にいくと帰ってこられなくなるからと村ぐるみ(役場も含めて)匿ってくれたという記述を読んだ記憶があります。特に共同体の意識の強い離島では、大いにありうるというより、普通だったと思います。』


 【老人と兆】
 竹細工に秀でた「ギンタおじ」は、村の端の粗末な小屋で乞食のように暮している独居老人であり、唯一のシャーマン的な存在です。村の子供やその家族とのあたたかな交流があり、「ギンタおじ」だけが「死神」から人々を救い出せる力を持っているのだった。

 【潮鳴り】
 ミホが小学三年生の時に、新しく赴任してきた若く美しい女性教師はやさしく、子供たちに愛されていたのでした。しかし彼女が密かに恋をして、人目を忍んで逢瀬を続けた島は、かつての流刑の島であった。それを村人にみつかり、彼女は村人からも子供(特に男児)からも侮辱を受けて、ついに授業に来なくなった教室では、さらに大きな事件が起こる。まだ下穿きやシュミーズなど一般の人々が身につけていない時代に、ミホがレースのついた下着を身につけていることを知った男児たちは、教室から女児を全部追い出して、ミホの下着を見ようとした。必死で身を守るミホ。。。ここでは「島」のおおらかさとは裏腹に、女性だけにある古い因習がのしかかっているようだった。この章は哀しい。しかし隠さずに書く島尾ミホの執筆への姿勢がうかがえる。

 【あらがい】
 ここでは前章の男児へのミホの反逆が始まります。子供世界を生き抜くためには、それなりの「仁義?」があるようです。しかし特権階級にいるミホは、大人社会がらみの子供の不平等もあることに気付くのでした。

 【潮の満ち干】
 思いを遂げて結婚したはずの夫婦が、生活に疲れて子供を連れて実家に帰った妻。一人取り残された夫は狂気の果てに放火をします。たった一人の警官が暇をもてあましているような島で起きた大事件でした。島の代表者たちの相談の結果、村に初めての「牢屋」が村人たちの手によって作られる。その「牢屋」は「ギンタおじ」の小屋の隣でした。「ギンタおじ」をはじめとして村人たちが交代で食事などの世話をしますが、その男は徐々に狂っていくだけでした。

 あと二篇は省きます。おおらかな風土と、そこに育つ激しい人間の情念は、島尾敏雄の私小説「死の棘」に描かれた女性の原風景のようにここにあったように思います。

 (一九八七年・中央公論社刊)
Posted at 22:38 in book | WriteBacks (0) | Edit
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