Feb 20, 2007
ハルビンの詩がきこえる 加藤淑子著 加藤登紀子編
加藤淑子は、加藤登紀子(歌手)の母上です。この母上が一九三五年四月から、夫幸四郎と共に過ごし、三人の子供に恵まれて、敗戦によって日本に引揚げて来るまでの旧満州国ハルビンでの十一年間の思い出を綴ったものです。このなかに登紀子の作詞作曲した歌「遠い祖国」が数箇所に挿入されています。冒頭の四行を引用してみます。その下にわたくしの詩「河辺の家」の一部も引用します。登紀子とわたくしの年齢差は一年足らず、わたしがわずかに遅い生まれのようです。共に三番目の子供であり、「ハルビン」の具体的な記憶がない年齢です。申し遅れましたが、わたくしもハルビン生まれです。この本を読み、当時の古い地図を見ていますと、この加藤一家とわたくしたち一家はどこかですれちがっているのではないか、と思うくらい共通するのです。
生まれた街の話をしよう
そこは遠い北の街
戦争の中で生まれてそして
幼い日に追われた街 (加藤登紀子・遠い祖国)
占領国の子として そこに産まれ
敗戦国の子として そこを追われた
その家は いつも
記憶の届かないところに佇んでいた (高田昭子・河辺の家)
おわかり頂けるでしょうか?その時わたくし達の親の世代は占領者だったということです。財部鳥子の小説「天府 冥府・二〇〇五年・講談社刊」にもありますように、占領者としての「天府」のような生活(この小説の舞台となるのはジャムスですが。)、「冥府」のような敗戦国民としての異国の生活がそこにはあったということです。
それでも何故あのハルビンは、そこで暮した人々の心に美しい街として記憶に残り続けるのでしょうか?列車が走っても走っても続く同じ風景の続く広大な大地、そこに落ちてゆく大きな赤い夕日、温かい人々との思い出、杏や林檎の樹、おいしい食べ物、キタイスカヤ通りの石畳、風と光、スンガリー河の流れ、太陽島の休日。。。
加藤淑子の書くさまざまなお話のほとんどは、わたくしの幼い日々からずっと母が語ってくれたことと重なりました。たとえばこんなこと。。。
●牛乳はしぼりたてのものなので、一回沸騰させてから飲んだり、保存したりしたこと。
●「ペチカ=ロシア語」をわたくしの母は「オンドル=朝鮮語」と言っていましたが、これは暖炉の熱を利用した壁床暖房です。零下二〇度、三〇度となる酷寒のハルビンでは、縦に細長い形の二重窓とともに重要な暖房だったのです。燃料は薪と石炭でした。
●上記のオンドルは調理用コンロにもなるのですが、朝は火が焚けるまでに時間がかかるので、街にはお湯売りが(日本の納豆売りのように。)いつもいました。
このような母としてのハルビンでの日々の記述の共通性は書いたらきりがありません。たった一つ、加藤一家とわたくしたち一家と違っていたことは、敗戦後約二ヶ月くらいで、わたくしの父は家族のもとに命の危険をおかしてまで、釜山からハルビンまで帰ってくることができたこと。そして酷寒のハルビンでは、貧しい敗戦国民となった一家が暮してゆくのは困難だと判断した父が、すぐに新京に南下して、そこで働きながら引揚げの日を待ったことでした。この引揚げ船の出る場所も加藤一家と同じく「葫蘆(コロ)島」でした。そこまでの列車が「無蓋車」であったことも同じでしたが、わたくしの父が団長を務めた引揚げ団では、無蓋車は一両五十人の割り当て、真夏なので直射日光を遮蔽するため、みんなで日除けを作ったり、トイレを作ったりして出発の日を待ったそうです。
どうもこの本の紹介ではなかったようですね。あまりにも共通することが多くて、わたくし事ばかり書きましたことをお詫びいたします。最後に加藤淑子の素晴らしい言葉をご紹介して、これを終わりといたします。
『人は生きるためにはどんな限界も超えることができる。』
(二〇〇六年・藤原書店刊)
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