Nov 30, 2006

モカシン靴のシンデレラ  中沢新一 牧野千穂(絵)

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 「シンデレラ」の起源は旧石器時代と言われています。それがさまざまな形で世界中に拡散したものと考えられています。五百年ほど前、アメリカ大陸には先住民がおりました。そこに殖民者が入り込み、ヨーロッパ文化は先住民に伝わりました。先住民のなかの「ミクマク族」とフランス人植民者は互いの神話や民話や物語を語り合いました。そのなかの「シンデレラ=灰まみれ」が「ミクマク族」の心をとらえたのでした。

 「ミクマク族」には不思議な技を持っている「灰まみれ少年」がいるのです。それは竈のそばにいて灰まみれになっている少年です。竈は死者の世界の入口なので、火のそばにいる者は死者と生者の交流の能力を持っているのです。この「灰」が最初のキーワードでした。  そして「ミクマク族」が疑問に思ったことは、「灰まみれ」の娘が「灰」を拭って、きれいに着飾って、王子の心を惹くという点でした。これは「聖なるミクマク族」には赦し難いことでしたので、ここで「ミクマク族」の「シンデレラ」が誕生したのでした。原題は「肌をこがされた少女」。英訳の原題は「見えない人」でした。

   王子は「ヘラジカ」の霊に守られた偉大な狩人で、聖なる魂の少女にしか見えない「見えない人」、シンデレラのガラスの靴は父親のお古のモカシン靴(ここに密かな父親の守護を感じます。)、衣装は森の白樺の皮(わたしの独断ですが、これはヘラジカの食料ではないでしょうか?)、「幸運のお守り」とされる「ウェイオペスコール」と呼ばれるわずかな貝殻の首飾り(これは装飾ではないでしょう。)でした。
 「シンデレラ」には、どの少女にも見えなかった「見えない人」が自然に見えたのでした。ここで少女は体にあった火傷の跡が消え、焼けちぢれた髪が美しい黒髪になったのでした。

 この物語は、ヨーロッパにおける「女性の美しさと幸福」と言うテーマをさらに深め、純化させたということでしょう。中沢新一の翻訳とは言い難く、創作とも言い難い物語ですが、牧野千穂のやさしい絵がこの本をさらに魅力的にしたと言えるかもしれません。

 (二〇〇五年・マガジンハウス刊)
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Nov 27, 2006

贈答の詩④ 秋山公哉詩集「河西回廊」への挨拶詩

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 「西域」は秋山公哉さんの少年時代からの憧れの地、大学も「大谷探検隊」の資料に触れることのできるところとを選んだ程の長い夢であったようです。どうやらこの詩集はその旅を終えた報告の書と言えそうです。また、この詩集は以前からの詩集とは異なり、すべてご自分で手作りされたそうです。見事な作りで驚かされましたが、この「手作り」に拘ったということにも、秋山さんの深い思いがあるのかもしれません。
 旅は四章に分けられて、「河西回廊」「蒙古高原」「玉門関」「天山南道」となっています。残念ながらわたくしが記憶を共有できるのは「蒙古高原」のみですが、この詩集から幻の旅をさせて頂きながら、一編の詩を書いてみました。


  砂の記憶

  そこには草原と空だけがあった
  その境目あたりから
  風が吹き 砂が舞い 光が広がる
  雲は雲の形で地上に影を落す。

  陽に焼けた額に知恵を満たしている
  羊飼いの少女よ 馬上の少年よ
  草の海の人々よ
  わたくしたちは潮の海を渡ってまいりました。

  幻の回廊をめぐり
  牛が水を飲む一筋の河を渡り
  砂に埋もれた城壁をさがしつつ
  揺れる空中桜閣を追って。

  そして草原から砂漠へ
  生きているものはすべて砂に還り
  神々は静かに風紋を渡り 
  わたくしたちの足跡も消えました。

  永い旅の終わり
  またここから始まる旅
  吾亦紅の咲く野辺に立って
  この花の名前の由来を再び思うのです。

   (二〇〇六年・私家版)
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Nov 26, 2006

私の上に降る雪は・わが子中原中也を語る 中原フク述・村上護編

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 中原中也の弟で五男の「中原呉郎」についてしばらく書いてきましたが、彼は「海の旅路」のなかで「故郷の中原中也」を書き、また中原家の系譜についても書いています。また四男「中原思郎」は「兄中原中也と祖先たち」と題した著書を出されているようです。これは未読ですが。
 この本は、中也たちの母親である、九十五歳の中原フクの口述を村上護が文章におこしたものです。このお二人の出会いを結んだのは、どうやら呉郎のようです。村上護が「山頭火」について調べていた折に、その友人である呉郎に出会ったことがきっかけとなっているようです。

 母フクの山口弁の語り口が、そのまま文体に再現されていますので、全体がやわらかく独特の世界を作りあげています。しかし、無残なことと言っては過言かもしれませんが、六人の息子達に恵まれながら、九十五歳のフクはその息子たちの死を見送ったという事実です。その息子たちに代わって、母親は我が子を語り尽くそうとしていました。過酷に見えるこの一冊は、すでに母親フクの創りあげた世界だとも言えるでしょう。死者はもう語ることはできない。生き残った者の想像力と記憶に頼ってこの一冊は成ったのです。

 読み終えて、何故か腑に落ちないのです。中原家の生死の順番が狂っているからだろうか?死んだ母親を語る子供はあたりまえですが、死んだ子供を語る母親の切なさは深い。しかし反面では母親の無意識の脚色ということも感じざるをえない。これは「悪意」で言っているのではありません。母親であるわたくしの拭い難い「直感」なのです。

 その一つの例をここで書いて見ましょう。
 フクの夫謙助は、夫としてはエゴイストでしたが、子供の教育には厳格で潔癖でした。ことに長男中也は「神童」とまで噂されましたが、あまりの父の厳格さに抵抗して、ついに「落第生」とまでなり、父親から追放される形で家を出され、別の土地の学校に転校しますが、それは中也にとっては孤独なことではあったでしょうが「開放」でもあったはずです。その中也の成り行きから、中也以下の息子たちは冷酷とも言えるほどの極端な「放任」の姿勢をとり、ここにも謙助の「エゴイズム」が見えてきます。
 その謙助の厳格な躾のなかで、庭の松の木に中也を縛って吊るしたというお話があります。当然母親のフクもそれに加担したことでしょう。夫に逆らえない妻の哀しさもあったかもしれません。これは中也から四男思郎が聞いた話だとされています。思郎が「兄中原中也と祖先たち」を書く時に、「その話はやめて欲しい。」とフクが頼んだのだそうです。しかし思郎は「それでも兄貴がぼくにそう話しておったから。」と答えたそうです。フクは口述のなかではこの事実を否定しています。これが中也独自のアイロニーであったのか、実話であるのかは知るよしもありませんが。。。

 このお話からすぐに思い出したのは桐田真輔さんの詩「11月20日」でした。この詩は四章に分かれていまして、亡くなったお父上への追悼詩です。全編は桐田さんのHPで読めますので、ここでは抜粋のみとさせて頂きます。

  (前略)
  おとうちゃんと呼んでいた子供が
  おとうさんと呼ぶようになったのはいつの頃だったか
  陰で親父と呼ぶようになる前のことではあろうが
  おとうちゃんは食事中についていた頬杖を
  よこからとっぱらったり
  泣きやまない子供を逆さにして
  崖のうえからぶらさげたりもしたが
  おとうさんはもうそんなことに関心はなかった
  (中略)
  精悍なシェパードが大好きだったおとうちゃん
  鋤焼きの味付けに大量の醤油と砂糖を投入したおとうちゃん
  僕は遠い昔に多摩川べりで
  おとうちゃんの大きな影を見失ってから
  幻の父を探し始めたのかもしれない
  死にきることの難しい時代のどこかでいつか
  僕はきっと父をみつける

   〔 November.27.1999 〕

    このわたくしの中で起きてしまった連想をおそるおそる桐田さんにお話しました。彼は「子供心に、父親は絶対にその手を離すことはない、という信頼がはっきりとあった。それさえあればさかさまな異界体験したようなもので、その印象の方が強いから、心の傷としては全く残っていない。」とおっしゃっていました。密かにほっとしました。しかし中也はどうだったのでしょうか?中也には「神童」という詩があります。

  神童

  わが生は、下手な植木師らに
  あまりに夙く、手を入れられた悲しさよ!
  由来わが血の大方は
  頭にのぼり、煮え返り、滾り泡だつ。

  おちつきがなく、あせり心地に、
  つねに外界を索めんとする。
  その行ひは愚かで、
  その考へは分ち難い

  かくてこのあはれなる木は、
  粗硬な樹皮を、空と風とに、
  心はたえず、追惜のおもひに沈み、

  らんだ*にして、とぎれとぎれの仕草をもち、 (*漢字変換ならず。)
  人に向かっては心弱く、諂ひがちに、かくて
  われにもない、愚事のかぎりを仕出かしてしまふ。

   (つみびとの歌 より)

 この詩の背景には、その松の木事件を含めて、幼い日の中也を悩ませた父親の教導が大きな影を落としているように思えてならないのです。その父親から母親のフクが中也をどこまで庇うことが出来たのか?どこまで開放させることができたのかは、フクの口述には表れてこないのでした。

 この本に関しましては、この問題だけに焦点を当てて、書いてみました。偏った感想ですが、中原中也と桐田真輔さんの少年期のちょっとした共通項と、視点の差異が書けたことでよしとしたいと思います。さらにこの本は二十代はじめの桐田さんが入手したであろうと思われる古書をお借りいたしました。これも何かのご縁でしょうか。

 (一九七三年・講談社刊)
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Nov 22, 2006

海の旅路 中也・山頭火のこと他   中原呉郎

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 十一月九日に『中原呉郎遺稿集ー山椒・三十二号』について書きましたが、それは「山椒」同人によって編纂されたものです。この「海の旅路」は新たに単行本として出版された遺稿集です。「三代の歌」「フク女覚書」「ヨハネ伝八章注釈補遺」は重複して掲載されていますが、それを含めて十四編のエッセーと小説が掲載されています。これらの著作も「山椒・三十二号」同様に、同人誌あるいは医学関係の雑誌などに掲載されたものを、呉郎の亡くなった後で遺稿として集められたものと思われますが、出典があきらかではありません。

 表題となったエッセー「海の旅路」は昭和三十六年(一九六一年)八月から、翌年十二月までの間に「日本郵船」の船医として訪れた海外の土地について書かれています。訪れた土地は約十五箇所です。日本を恋しいとは思わなかったが、反面ではどこも同じことだという感慨があったようです。この旅の後で呉郎は「日本の普通の医者になろう。」という結論に至ったようです。
 中原家は代々の医家であったのですが、長男の中也は家業を嫌い、文学の世界にいく。五男の呉郎は医師とはなったが、やはり中也同様に留まり続けることのない人間だったようです。略歴でもわかるように、軍医、船医、開業医、ハンセン病療養所の医師、無医村の医師など、変遷が多いようでした。それは友人「山頭火」が与えた影響も大きいものと思われます。

 「紫陽花」は、シーボルトの日本人妻とその混血の娘、孫娘の三代の歴史小説になっています。娘は医師となりました。また「蘭学のころ」は日本の蘭学のはじまりと、それを受け継いだ人々の系譜がしっかりと記述されています。この二篇が医師「中原呉郎」の思想の原点であり、中原家の源流とも言えるのかもしれません。

 また「故郷の中原中也」では、中原家を出た後の兄中也が五男呉郎へ与えた精神的な影響の大きさを物語っています。その後の生き方も、本来持っていたお互いの性格も異なりますが、評論家たちにはない弟の視線で「中也」を語る点には大いに注目してもよいでしょう。

   (一九七六年・昭和出版刊)
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Nov 18, 2006

ハンセン病文学全集・8・短歌(その一)

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 この文学全集は完結すれば全十巻となります。この短歌編は八回目の配本です。小説三巻、詩二巻、児童文学一巻、記録&随筆一巻がすでに刊行されています。その後、俳句&川柳一巻、評論&評伝一巻で完結となるはずです。作品は約八十年前から現在までに書かれたものです。これらの作品は全国のハンセン病療養所から集められたものですが、小さな出版社にとって、それは十年を越える歳月の作業だったようです。

 ここでまず短歌の巻を取り上げます。・・・・・・と言っても、今後、詩の二巻、俳句&川柳の一巻について書く気持はありますが、あまりにも膨大な分量ですので、お約束はできません。さて、この六五六ページ、二段組の重たい歌集について、どこから書いてゆきましょうか?まずはこの全集の編集者の、二〇〇四年十一月のメモをご紹介します。

 『長島愛生園では、双見美智子さんという八十過ぎの素敵なおばあさんが「神谷文庫」を守っている。宇佐美治さんは、ハンセン病資料の収集と保存に命を懸けている。多磨全生園ではハンセン病資料館などが出来るはるか以前から、山下道輔さんが「ハンセン病図書館」を運営し資料の保存してきた。
 多くの「学者」が「新資料を発見」したと称して、マスコミに登場するが、それはそうした人たちが苦労して保存してきた資料の中から「発見した」に過ぎない。それも多とするけれど、そうした発表の中で、無名性に徹して惜しげもなく資料提供した彼らに言及する「学者」は少ない。』


 これは大変に重い言葉です。そしてこの全集刊行の底流として、この考え方はずっと流れ続けていたのではないかと思います。この姿勢に敬意を表したい。

 わたくしは元来この世界に詳しいわけではありません。そのわたくしがあるきっかけからここに収録されている作品の約十倍の作品を読む機会に恵まれました。(詩、短歌、俳句、川柳のみですが。)それらの本を読む時、注意深くその一冊づつの書かれた時代と、療養所の場所とを頭に入れました。そうして全部を読み終える頃には、おぼろげながらも、ハンセン病の隔離と差別の歴史、療養所の生活の様子、深い雪、波の音、川の音、風雨の気配、陽ざし、花、草木、野菜、動物、そして病の実態、治療薬の発見の歴史によって、その運命を別けられた人々・・・・・・書きつくせないほどのものをわたくしはそこから学びました。

 だからこそ、わたくしはそれら半端な知識や理解を、もう一度捨てるところから再出発したいと思います。誤読、深読みはしないこと。ある作品が「ハンセン病」という括りをすでに超えて「普遍性」に届いているのだとしたら、わたくしはその「普遍性」の方へ視線を向けたい。

 また、別の視点から考えますと、作品としての水準はどうか?という問題もあります。これを書くことはとても怖いことですが、あえて書きます。ここにはすべての書き手の作品が収録されていることです。永い文学の歴史のなかでは、このような「文学全集」は本来ならばありえないことなのです。ですからこれは「痛い声」の全集なのだと思われます。たとえば幼い子供が腹痛を訴えると、母親も同じところが痛む、というような遠い記憶を呼び覚まされるような出会いだった作品なのです。

 この二つの視点のはざまで、途方に暮れているわたくしを、救い上げて下さった歌人は「赤沢正美」でした。赤沢は昭和八年生まれ。高見順賞受賞詩人であり歌人の「塔和子」の夫です。ここに収められた歌人は一二〇〇名、そこから何人かを選ぶのは大変に困難なことですが、かつてのわたくしのメモに残った作品を見ますと、大半が「赤沢正美」であったということから、ここでは赤沢のみの作品紹介にとどめます。

 台風に揉まれし茎を起こしゐる草の自立は野にひそけしよ  (投影)

 人が立ちて歩き始めしときよりの背後の不安われもひきずる  (草に立つ風)

 明日のことまで断言をしてはならぬ貧しき者に貧し木の椅子  (投影)

 地の飢えは癒されゆくか風落ちて眠りの如く降る雨のあり  (投影)

 病む膝を抱へて妻は眠りをり胎児標本の如くせつなく  (投影)


  (つづく。)

 (二〇〇六年八月・皓星社刊)
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Nov 11, 2006

アイヌ神謡集   知里幸恵 編訳

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 知里幸惠(ちり ゆきえ)は、一九〇三年(明治三十六年)生まれ。一九二二年(大正十一年)心臓病で急死。その翌年に「アイヌ神謡集」が出版されました。
 この本の定本は、その大正十二年の「知里幸恵編『アイヌ神謡集』・郷土研究社刊」であり、北海道立図書館北方資料研究所蔵の「知里幸恵ノート」を、編集部が閲覧して、補訂したものです。

 知里幸恵は十九歳の若さで亡くなっています。彼女は登別のアイヌの豪族の血筋を引き、豊かな大自然のなかで育ち、旭川の女子職業学校で日本語、ローマ字、英語を学びました。そして母と伯母からキリスト教を学ぶことによって、父祖伝来の信仰を深め、純化したものと思われます。
 十七歳の時の金田一京助との出会いが、この「アイヌ神謡」の翻訳と出版への工程をより進めたものと思われますが、「生涯の仕事に。」という決意もならず彼女は夭逝されて、ここに収められたアイヌ神謡は十三編、残念ながらすべてということにはなりませんでしたが、これが「アイヌ神謡」として世に出た初めてのものでしょう。皮肉なことですが、この本がわたくしの手に届いたということは、先住民であったアイヌへの大和の侵略によって、日本語、新しい宗教がもたらされたという過去の歴史があったということでしょう。

 これはアメリカ・インディアンの口承詩にも言えることかもしれません。祖先からの知恵、自然とともに生きてゆくことは自然への感謝と信頼であること、あたりまえのようでありながら決してあたりまえではない生きることの厳しさとやさしさを、わたくしたちは「侵略」によって知ったことになるのです。

 これらアイヌ神謡は、文字がなく口承ですから、言葉の音として、本文はすべてローマ字で書きおこされていて、それを知里幸恵が日本語訳したものです。こうした仕事が出来る方はめったにいなかったことでしょう。
 ここで謡う神は「梟」「狐」「兎」「小狼」「海の神」「蛙」「小オキキリムイ」「沼貝」です。「オキキリムイ」とは「人祖」です。これらの「神謡」からはもっとも根源的で平和に生きる意味が問い直されてゆきます。また「神謡」は、個々の物語に固有のリフレインがひんぱんに見られます。特にわたくしが美しいと思ったのは「梟の神の自ら歌った謡」のなかにあるこのリフレインでした。しかし文字の上でのリズムしかわからないのが残念です。

   銀の滴降る降るまわりに、
   金の滴降る降るまわりに、


 アイヌの口承文学の中で、物語性をもったものは大きく分けて「神謡」(カムイユカラ)「英雄叙事詩」「散文説話」の三つに分けることができるそうです。その「遠い声」に耳をすませていたいと思います。

 (岩波文庫 一九七八年第一刷・二〇〇五年第三十七刷)
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中原呉郎追悼集  中原ふさえ編纂

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 十一月九日に掲載しました同人誌「山椒・三十二号・中原呉郎遺稿集」の年譜は、ややあいまいな点がありましたが、この本は奥様の「中原ふさえ」が編纂したものですので、こちらが正確かと思えますので、改めて年譜のみとりあえずメモしておきます。
 この本はすべて友人、知人の追悼文を収録したもので、奥様の著述はありません。最後は中原呉郎の母上が「ふさえ」に宛てた手紙も収められています。これらに関しましては、改めて書いてみたいと思います。では年譜のみを。
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(一九七六年・私家版)
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Nov 09, 2006

中原呉郎遺稿集 「山椒・三十二号」

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 まず、このガリ版刷りの貴重な古い一冊を持っていらしたF氏の資料提供に深く感謝いたします。しかも古い貴重な本に触れるわたくしの緊張感を思い、すべてをコピーして提供してくださったお心遣い、ありがとうございました。また中原中也と中原呉郎を繋ぐ情報を下さった関係者の方々にも心より感謝いたします。

 中原呉郎は、「中原中也」を長男とする六人兄弟の五男にあたります。職業は医師。これを掲載した同人誌「山椒」は、ハンセン病国立駿河療養所において「中原呉郎」が療養所の方々に声をかけて始まったものでした。「三十二号」は昭和五十年(一九七五年)に亡くなった彼の追悼特集号となっています。彼は医師の仕事のかたわらに詩、随筆、小説などを書いていたのです。「中原呉郎」の略歴を記しておきます。

大正五年(一九一六年)山口市にて生まれる。父は医師中原謙助、母はフク。
昭和十六年(一九四一年)長崎医科大学卒業。

ここに空白がありますが、この期間にはおそらく軍医だったのでしょう。戦後には自らの生き方に彷徨いつつ、船医をしていた時期もあるようです。

昭和三十年(一九五五年)国立多磨全生園勤務
昭和三十八年(一九六三年)国立駿河療養所勤務
昭和四十年(一九六五年)茨城県稲敷郡河内村国保療養所長勤務。

   河内村は「無医村」だったのです。

昭和四十九年(一九七四年)八王子市散田南多摩病院勤務
昭和五十年(一九七五年)肝硬変にて逝去

 この遺稿集には「三代の歌」「ヨハネ伝第八章注釈補遺」「フク女覚書」「病院街行進曲」「墓標記」の五編が収録されています。「三代の歌」と「フク女覚書」は、中原一族と、母親「フク」について呉郎の視点から書かれています。残り三編は小説でした。

 【三代の歌】では、呉郎の祖父母、父母、そして兄弟のことが書かれていますが、その系図は大変に複雑ですので詳細は省きますが、中原一族の宿命とも言える「魂の彷徨性」「狂気性」と共に「いのちの儚さ」が、わたくしを圧倒してきました。また、中也の詩にもあたって、弟の視点で見た中也の生い立ちとの関連、詩人たちへの最期の手紙や詩作品の意味合い、母「フク」が好きだった詩は「冬の長門峡」だったことなど、わたくしの今後の中也詩の読解に大きく影響してくることでしょう。

 呉郎は中也の思想を「叙情性」からすべて出発したものであることを指摘しています。これは中也に限ったことではなく、わたくしはむしろ普遍的なことではないのかと思います。また中原家三代に渡る「含羞=はじらい」を中也が受け継いだとも書いています。それは「田舎馬が物に驚く」ような「なま」な感覚でむしろ「照れ」に近いもののようです。

 【フク女覚書】は、その「儚いいのち」の哀しみをすべて背負って、九十歳を超えるまでしっかりと生きられた母上の生涯が見事に書かれていました。「フク」は大変向学心もあり、とても愛情深い方だったように思いますが、残念なことに狂気と夭逝から中也を救うことはできなかったようです。

 【ヨハネ伝第八章注釈補遺】は、中原呉郎自身の解釈による「ヨハネ伝」で、一人の娼婦を主人公にした一編の小説の形となっています。

 【病院街行進曲】【墓標記】の二篇の小説は、中原呉郎自身の自伝のようなものであり、中原呉郎の生き方の表明に似たものだと思われます。前者が「地上の医者」ならば、後者は「海上の医者」と言えるかもしれません。この二篇に共通していることは、女性を愛すること、家族を持つことを呉郎自身がどれほどに恐れたか、ということです。その根底にあるものは前記の「魂の彷徨性」のようでした。
 現実の中原呉郎は結婚はしましたが、「子供を持つこと」はありませんでした。それはどうやら中原一族の「狂気」を恐れてのことだったようです。

 【墓標記】の方では、船は「海上の牢獄」だと書き、孤独と閉鎖性のなかで心を病む者が多く、海に出ることは決して開放ではないことに気付かされます。ペルシャ湾の嵐の折の描写では「全員が同一条件に立ち、過去と隣人との思いから断絶されて、死の恐怖に襲われる時、西川(主人公)は不思議な心のやすらぎを感じていた。身を痛めつけることが、せめて生きるしるしのように思われた。」と書かれてありました。

 以上は、「山椒」同人によってこの一冊に収められた作品のみで、それ以前の同人誌「山椒」に掲載された作品、のちに単行本となった作品、奥様の手による遺稿集などもありますので、さらに新しい発見はあると思います。最後に、これを書くにあたり、さまざまな情報を下さって、わたくしのこの一冊の読み解きを支えて下さったF氏に深く感謝致します。ありがとうございました。

 昭和五十年(一九七五年)刊
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