阪急電車の懐かしさについて

阪急電車の懐かしさについて

冨澤守治

わたしは生まれてから阪急電車の路線以外に関西で住んだことがなく、あの栗色の外装の塗色と木目調の内装が上品で子供の頃から好きだったし、この電車なしの生活は考えられなかった。

私鉄路線が発達している関西であるが、阪急電車はおおまかに言えば、一番北側、大阪平野では「北摂」という地域を走り、神戸・大阪・京都の「三都」を結んでいる。

宝塚・箕面・千里山・嵐山と支線は伸びて、バス・タクシーほか商業施設または宅地を中心としたデベロッパーも営んだという歴史的な性格からもして、関西では「阪急路線」というと、線路周辺で範囲一体の文化圏を形成している。なかんずく「文化圏」というひとつ完結した地域で、ひとびとが概ね一日を完結することができるのである。

いまは去ってきてしまったが、家族の思い出とともに、多くの記憶が残る。特に千里線・京都線はわたしの慣れたインフラであった。それは誰しもが大切な幼年期・青春時代に結びついている。

まずわたしは千里線吹田駅の近くで生まれた。幼少期、その母の実家であった自宅から田圃(タンボ)を隔てて阪急電車が走っていた。そして小学生のときに京都に転居して以来、京都線沿いの郊外を数度転居している。その一箇所が線路際の新聞販売店であった。さらに大学は関西大学の千里山キャンパス、なんと再び千里線に戻り、同線の関大前駅で乗降して、通った。

この大学の学部の時代、それは父の大病・看病、死亡といった出来事に始まり、その結果、家業の新聞販売店の経営に精力を注ぎつつ、法律学・政治学、そのうえ独学で哲学を勉強した。ときには関大前駅から帰路、直接梅田駅に向かい、大阪市野崎町にある読売新聞大阪本社に寄って、それから京都線で帰店して事務処理、夜半の勉強、新聞販売店の未明から始まる仕事の準備、仮眠を取ってまた大学に向かうという日々であった。

眠らない。睡眠時間は限りなく少なく、授業の合間に関西大学の図書館や構内のベンチで睡眠を補った。この間、片道45分間、阪急電車は、わたしにとっては貴重な読書時間、読書空間であった。難渋した哲学書たち、それに民法・商法・刑法・国際法の基本書を読破した。さらに政治学までも。それらはわたしの知識の容器を満たして溢れ出すかのごとく流れ込んできた。

もう女性たちと、さらに一緒になって母にまでも「堅物・偏屈」と言われたが、わたしは意に介することもなかった。若い頃のわたしを取り巻いていたのは、いつもハラハラした血潮とその流れにそった熱情を背景にした雰囲気であり、そこにはいつもこの電車の栗色の心地よい風が吹き抜けて、冷却していった。

20代前半、こころの赴くままわたしは自由に生きていることができた。この時期がわたしの健康であった最後の時代になることも知らないままである。それゆえにこそ、ことさら懐かしく、いとおしいのであろう。