駅
南川優子
電車が駅に停まるたびにドアの唇は開き、車内に外気をふっと吹きかける。その唇から漏れるように聞こえてくるのは、なじみの駅の名前。通勤電車の中で、弓子が人のにおいから解放される瞬間だ。人のにおいからだけでなく、革鞄やウールのコートのにおいからの解放。押し黙った人間たちの顔からの解放。その瞬間、駅名の付いた領域を弓子は確保する。けれど人の乗り降りが終わり、ドアが閉じて発車すればその領域はしだいに淡くなる。
幼いころから弓子は、自分が住んでいる部屋、自分が住んでいる家に永遠に暮らせないことを薄々と感じていた。両親もいる。弟もいる。別の土地に引っ越したとしても、家族は消えない。けれども家族は家ではなかった。弓子にとって、自分の領域というのは自分を包むもの。弓子は想像した。もしも自分が湖に住む魚の群れの一匹で、その群れごと別の湖に移されたとしたら、その群れを自分の群れと認識できるのだろうか。移動先の湖の底に生える藻の色が、生まれたときから暮らした湖の藻の色と同じでなければ、たとえ仲間がいても自分の湖とは認識できないのではないか。服と同じで、脱いでしまったらもうおしまい。
だから弓子は、学生時代クラスに突如現れる転校生たちの話が、不思議でたまらなかった。クラスには家族の事情で二度三度と転校を経験した生徒もいた。自分が暮らした村に流れる川のこと、十カ月間過ごした八階建てのマンションのこと、親に連れて行ってもらった遊園地のことなどを、彼らがふわふわと話しているのを聞くたびに、結局は捨てていった土地なのに、なぜそのような体験をやすやすと身にまとい、永遠の所有物のように思えるのだろうかと感じた。。
次の駅まであと二、三分というところで、電車は速度を落とし、ゆっくりと停車した。線路わきの二階建ての家のバルコニーには、布団が干してある。「お急ぎのところたいへんご迷惑をおかけしております。ただいま線路を人が歩いているという連絡を受けました。安全が確認されるまで、もうしばらくお待ちください。」アナウンスの声が車中に流れる。
線路を歩く人。その人はどの領域に身を定めようとしたのか。線路が故郷というわけではあるまいし。侵入者はいつだってわたしが領域に収まることを拒む。さあドアよ、今すぐその口を開いて、わたしに新しい駅名を教えて。そうしたらわたしはあの家のバルコニーに座って、ここがわたしの永遠の場所だと宣言するのだ。弓子はそう思った。