こだま

こだま

三井喬子

 到着の案内が放送されて間もなく階段を忙しなく駆け下りてくる数人の中に、確かに彼女がいた。柱に隠れるようにしていると、上手いこと通り過ぎて行った。俺はドアが閉まる直前に駆け込み乗車をしたのだった。
 この期に及んでもう会いたくなどなかったが、それでも何がなし胸ふさがれる思いがして、ブーツのつま先の埃を見ていた。
潔癖症の彼女は靴の汚れを殊に嫌う。汚れた爪先には何か意味があるように思え、また無いようにも思えて、見ていること自体がまるで裸でいるかのように恥ずかしいらしい。人のお尻と太腿の間には、皺のようにくっきりと深く刻まれているが、そこには真実と言ったようなものを挟み込むのだろうか。
 思い出してはならないものを、つい思い出してしまう。これだから俺は駄目なんだ。駄目な男なんだ。妻帯者である俺が若い女の手をつい握ってしまったことも、俺の節度のなさの現れなんだ。すべては夢のうち。ましてや「可愛い」なんて、言ってしまうなんて…。
 わわわわわ、明日、最終の「こだま」だなんて、誰が言ったんだ!
 恥ずかしい。恥ずかしくなって逃げた。今日も送ってくると言ったが、やめてくれと言って全速力で走った。ハイヒールの足で追いついて来られるはずもなく、余裕で最終に間に合った。どっと安堵感が沸き上がってきた。俺は、俺は、人殺しをした訳ではない。大きな声で叫びたかった。明かりが流れ去る窓の向こうに、何故か黒っぽいコートの妻が、瞬きもせずこちらを凝視していた。たしかに妻だったと、目の前の窓の外を凝視すると、にやっとわらったような。
 どうだ、俺は男だぞ。男だから、今から帰るぞ。

 小さな駅を通過した時、触れた手をついぎゅっと握り返した。
 温かい手だった。窓の外の暗い風景が笑った。そして耳朶に聞こえるか聞こえないかぐらいの小さなこえが囁いたのだった。
「一人で帰るつもり?」

「ん、いや…」
 置き去りにしてきた筈の女の、赤と青に染め分けた長めの髪が、「意志」の権化のように触れて来て、俺の手を握りかえした。
「わたし、結婚生活とか、妻とか言う言葉は嫌いなの。「人間」で良いじゃないの。そういうふうに生まれてきたんじゃない、わたしたち? 一人対一人よ。」
「さ、降りましょう。ここはわたしの故郷よ。時々帰るの。考えないで。何も考えないで。さ、降りましょう」。
 震えた。妻の実家は小田原にあるのだ。彼女の実家も小田原なのか。
 逃げようがない。それでは逃げようがないではないか。最初から感じていた親近感は、妻の言葉と彼女の言葉のニュアンスにどこか近しいものを感じていたからかも知れない。
 案の定、手のひらの冷たさまでもがそっくりだ。昨夜握った乳房の大きさや質感までもが似ている。

「男はね、こういう時ふうっと吐息をつくのね。済んだ時みたいにね。」

 流れる電柱の一つ一つが、誘っているようだった。到着案内のアナウンスを聞いて、ドアが開いて、閉まる寸前、飛び降りた。突き倒した女が転がったのを見届けて、ホームを見渡すと、妻が赤子を背負って、幼児の手を引いて、迎えに出ていた。
「とーたん、どこ行ってくうの。ぶーぶ、こえ、おいちゃん、くれた。」
 回らない口で、早く思いを伝えようとする。せつなく、可愛い。

「おかえりなさい。今日は早かったわね。一本しか待たなかったわ。」
 え、子連れで、夜更けの寒い駅のホームで俺を待っていたのか。
 妻の視線が痛かった。商用ででかけたことになってはいるが、勿論呼び出してあった。ホテルは勿論勿論ビジネスとはいえ、ましな方の
 ダブルである。家へは自分の方から電話を掛けた。その方が信頼があるだろうと…。

「疲れた。」
「ご苦労様でした…。でも、なんでそんなに疲れたの?」

「おとーたん、<こだま>みたいに帰ってきただろ、ほら。」
 わざとらしいが抱き上げた子供が、変な顔をした。おしっこだ。妻は一瞥すると車のドアを開けた。
「飲んだの?」
「缶ビール一本」、
 彼女が飲もうといったから…。
 カラーリングした髪の毛が一本、はらりと肩から落ちた。ポケットには何が入っているのやら。ごそごそと動く「シソウ」かも知れない。何かにおう。
 どこかで女の笑い声がした。