深く抉れた夜の三叉路を行き、真昼の街角に迷い、旅人はたしかにじぶんが所有していたはずの部屋を捜している。人が親とともに、あるいは恋人とともに、あるいは子や姪や孫とともに過ごすのではない、各人孤り孤りの部屋。そして、長い旅における蹄鉄のように欠かせない、時間の明るみに示されてくる一本の重い鍵。ねむれない、その悲痛な鍵。その部屋はどこへ行ってしまったのだろうか。部屋に入るには、なつかしい角を曲がり、見覚えのあるスレートの瓦屋根と髭だけが笑っている猫の気配の隣家を過ぎて、炎みたいに暗く燃えている杉木立に迎えられて、大きな木目のついた扉に至る必要がある。旅人には夢のなかのことなのか、遠い記憶なのか、デジャ・ヴュのような予兆なのか、区別がつかない。だけれども、彼の覚醒時、階段を下りたり、木陰を抜けたり、理髪店のまえを通り過ぎたりするとき、ふと、彼方の出現みたいにそれら時間とも形象ともつかぬもの、それらが見慣れた形でつくねんと露出しているのをなにげなく目撃して、その隠された部屋を覗く思いをすることがある。どうすれば行くことが出来るのだろうか。どこにその鍵はあるのだろうか。輾転反側する夜の底で、人の生涯にたった一度、鍵の形が示されることがあるという。ねむりのなかで、夢のなかで。鍵を手に取るには目覚めなくてはならない。けれども鍵は絶対のねむりのなかにしか在ることが出来ない。おそらく二度と目覚めなくていい、他の現実ないし非現実へと消失してもいい、と、痛いほど意志して旅人は銀の鍵の冷たさを握り締める。徐々に明瞭になる周囲があり、彼はまざまざと見る。蒸発してゆくねむりのなかへ、井戸のように遠くきらめく夢の底へ、握り締めるもう一人の旅人を連れて永劫に失われ落ちてゆく鍵を。ふいに「管理人」が現れて、言う。「さあ、もう日暮れだからあんたは帰れ。これはあんただけのために創られた鍵だから、ほんとうはあんただけにしか失くすことができないのさ」*……別のある日、旅人はバス通り沿いの、杉木立の暗いほむらのむこうへつくねんと出現している、鍵穴のない部屋の窓に、じぶんとよく似た上背を一瞥していたりする。
*フランツ・カフカの短編による。
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