かがやきながら橋は、長橋は、彼方にむかって延び、かすんで消えていた。革袋の伸び縮みする風圧から押し出されてくる低い音をともなって、旅人は、岸壁みたいなところから長橋を望んでいる。すべてはかがやいている。するどい尾を持つ白くて小さな海鳥が深い水の色のうえを旋回して、《「銀の滴降る降るまわりに、金の滴/降る降るまわりに。」という歌を私は歌いながら/流に沿って下り、人間の村の上を/通りながら下を眺めると/昔の貧乏人が今お金持になっていて、昔のお金持が/今の貧乏人になっている様です。》*という歌を歌うみたいに、夏を、この世界の巨きな掌のうちがわを緻密に祝福している。旅人の眼に写る長橋には硬い光をあげるメタリックな鋼板の動きが連続して、彼方からこちら側の岸へ、またこちら側から消えて見える彼方の岸へと、さかんに往還してゆく。橋という構造物ほど宙 の青さを意識させるものはない。水と踏み
板のあいだの空間を、船橋や巻雲、死者、瓔珞のかけらが通過してゆき、風という名の無に旅人は抱きしめられるのだ。彼が担う旅嚢には簡素な書巻が入っているが、それは読み切られてはまた最初から読み始められる極彩の影濃い砂時計みたいだ。世界はまさに極彩の絵巻であり、書かれた世界の事柄は装飾された無文字によって明快に記し留められた、少し鈍くされた切っ先の、妙観の刀**が彫り出してゆく驚くべき幻なのだ。砂時計をまた逆さに返して旅人は、青くけぶる彼方にわずかに白壁の連なりが立つのを見る。真空の蒼穹のなかに瑞像はなく、ただ臥如来の横溢ばかりがある。白い壁は上に伸びるかと思えば、気がつけば遠近を無視するように近づいて、あたりがかき昏れる。まわりがほの明るくなると、突っ立ったまま目を瞑り、ひたすらに打擲してくるあたたかな無数の雨粒の悲に堪えている旅人。ふいごに似た黒い革袋の喘鳴が止む。長橋はふたたび彼方とこちらを跨ぎ、夏草に、鋼鉄のようなきらめきを宿す雨滴が危うく吊られている。荘厳の時は去ったのだ。五月雨が降りのこしている光堂がある。***
*『アイヌ神謡集』(知里幸恵編訳)より「梟の神の自ら歌った謡」冒頭。
**『徒然草』第二百二十九段。
***『おくのほそ道』の句形は「五月雨の降のこしてや光堂」。
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