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 これまで触れてきたとおり、「熟語構成」には、「構成」の解体という逆過程が含まれる。すなわち、単純な語根、あるいは体言性の語が相互に結びつき、屈折をおこして「熟語」を構成する、といった過程は半面にすぎず、もう半面の、複雑な構成を為す「熟語」が、〈習熟句〉としての反復の段階を経て、主部を落としたり形を縮小させたりすることによって再び単純な省略された姿で〈叙述〉の性能を発揮する、といった解体の過程をも包括して、〈熟語的なもの〉の全体を考えねばならない。
 そしてこの〈解体〉の過程において、〈習熟句〉のような一定の姿で反復されてきたために、〈熟語的なもの〉は、ある心的な内容性とも云うべきものを、〈叙述〉のさいにもたらす――ということが〈発生以後〉における「日本語」表現の重要なモメントとなっている。
「熟語」が縮小しあるいは省略された短い形となって語の現存をかえるとき、熟語の主部や習熟句の全体の内容(=叙述部分)は、その短い簡易な形のうちに、〈代表〉され〈暗示〉されるのである。略語が、文章表現の全体について持つ意義は、折口の言い方では、「はぶいたゞけの気分」(P415)を孕んでいる。そして、この熟語、あるいは、習熟句の縮小する形、略される形は、「日本語」特有の「周辺表現」すなわち、叙述の主部であるべきものを表わさず〈暗示〉することによって表現し、また内容に就いては、たとえば感情の程度だけを述べ、それがどのようなものであるか具体的にその種類を述べない、といった表現形式を形づくってゆくのである。(「あさまし」「うたて」「あはれ」等について折口の論述を見られたい。)
 この形(〈熟語的なもの〉の展開)がもっとも特徴的に絡まりあって形成されるのが、第二次以下の、「形容詞」および「副詞」の発生過程である。このふたつの発生について、ほんの概要だけしか述べる余裕がないが、メモ風に記しておく。(ちなみに「形容詞論」「副詞論」は折口の「国語学」のうち最重要の〈環〉をなしている。)

A)形容詞
 まず「形容詞」について〈熟語的なもの〉の関与を見てみる。
 この場合ほとんど一義的に終止形を決めている形容詞語尾「し」が問題となる。「用言」の発生が単一の要因によるものでなく、いわば複層の構造をもっていることは、先程から、彼の考察のうちに見てきた通りであった。「形容詞」の場合でも折口は発生契機(経路)を間接と直接と、第一次と第二次と、というように複数でとらえるのである。
 まず、動詞用言の語尾発生に典型的にあてはまる、語根の直接的屈折による、云わば「内部」的な発生としての「し」が考えられる。むしろ折口としては、動詞語尾がウ列に近い子音としての「語根」内部に包含されていたように、「し」もまたその形に近いものとして「語根」の一部(あるいは「語根」そのもの)といったものであったと、「形容詞」語尾一般の発生を決めたがっていたように思われる。それが一般的に可能であるならば、ほとんどすべての用言語尾発生の機構を原理的に押えることができるからだ。
 だがそのさい、困難は具体的に、そしてただちに現れてくる。第一に、発生時代の古文献の絶対的不足、またそのことにおおきくかかわって、たとえばすべての「用言」が原態において統一的に把えうるものであれば、動詞では母音ウ列で定まっているものが、何故「形容詞」の場合、一義的に「し」でなければならず、屈折も母音ではない端的な「し」から類推しなければならないのか、その理由をつかむ手だてが失われているのである。
 折口はここで、「し」の問題を直接の発生(第一次的)から説くことを避けて(そのような例も多く妥当的に存在するが)、第二の途、すなわち「し」の展開のありようから、その固有の発生の理由を(「遠く」から)類推してゆく方法をとる。
 つまり、屈折的なものとは明瞭に弁別される、云わば遊離している(無機的な・「囃し詞」のような・それ自身の文法的職能の希薄な)「し」が存在し、それが他の同様の性格をもった「ら」「や」「か」などとともに、用言的屈折をしない体言性の語のために熟語格をつくって〈熟語的なもの〉特有の運動のうちに用言的なものに転化させ、そのひとつの帰結として「形容詞」の終止形が発生する(=「し」が終止の妥当的な感覚をもつ)という経路を考えるのである。「し」が一義的に終止を決める語(としての形容詞)は、そこで領格対象語すなわち「熟語」の主部を脱落させているものとみなされ、むしろ「し」がつくことによって主部脱落の形跡を「明示」しているもの、として把えられるのだ。「形容詞」の形は、「し」によって「謂はゞ傷口が縫はれてゐる」(P432)のである。
 折口によれば「語根の一部」である「し」のほかに「語にわり込んできた〈し〉」がある。「やすみしゝ」「いよしたゝしゝ」など、「律文」における音声的要素(囃し詞)としてしか、現在では考えることができない、文法的職分から云えば(用言性能からは)無に等しいような「し」の一群である。
「律文」において、この「し」は後続する語を「無機」的に、あるいは「気分」的に媒介すると云える。(その意味で「領格」とも考えられる)それが次第に表現性能を拡げる。すなわち、いっぽうで、かならずしも後続する語のみに係ることをしなくなってゆき、他方、□し□という形をつくる「熟語格」のなかで、文法的職分の(用言的な)有機性とも云うべき性格を有してゆくのである。
 後者については、「古代式表現」に従えば、云わば□・□の形で通ずる二語の間に、〈緩衝句〉としての「し」が介入することによって、(□し□となる)「熟語」の形を構成すると云えよう。その中で「し」は、次第に単なる「熟語」格であることから、有機的な(用言的な現存をもつ)時間意識(→過去表現)としての性格を帯びてくるようになるのである。この「し」は「一種の連体法を作る語尾」であり(P83)、「熟語」の構成から解放され、さらに所謂「助動詞」となる一歩手前で、「形容詞語尾」と岐れる――というふうに説かれるのである。
 いずれにせよ、□し□の形は「し」のありかたの〈原型〉をなすということが重要である。「し」はかならず後続する□の〈叙述〉の空間を、云うなれば「断絶的」に示しているとも考えられるのである。ここで折口は、□し□という「熟語」格の在り方から、□し、という形容詞終止形固有の姿をとるまでの過程に、□しもの(□じもの)という形を措定する。□しもの、の「もの」の部分は、後続する□の叙述の空間を表わすものとしても考えられるが、しかし折口にとっておそらく□しもの、の形は、「し」が熟語過程をとる端緒にすでに用意され、□し、となったのちも、或る心的内容(それ自体は無形の)として、実在と空白とが同義であるような在り方で継続してゆくものであった――というように考えられている。
 □し、という「形容詞」固有の在り方は、「しもの」の意識をつねに含むのである。「形容詞の論」の最後に、「し」の内在的契機とも呼びうる構造を次のように述べていることで、折口は、その「形容詞」発生に関する思考のアルファとオメガを〈飛躍〉的につないでいるように思われるのである。

 「じもの」の語源については、「其(シ)物」「状(シ)物」など言ふ印象分解説はあるが、其では「もの」の説明を閑却してゐる。「もの」はやはり、霊魂の義である。「かしこじもの」は「畏し霊」で、其威力によつての義を含んで居り、「をとこじもの」は壮夫霊(ヲトコジモノ)によつて、招魂(コヒ)すると言ふ咒詞的な用語例があつたものと見る。意識が変じて、壮夫なれば、壮夫としてなど言ふ風に感じられ、其が更に、新しい民間語源説を呼び起したものと見える。併し、其径路にあるものとして、遷却崇神祭祝詞・出雲国造神賀詞を見るがよい。物質・霊魂を譬喩或は象徴としてゐることが知れる。同時に「…の霊の表現としての」「…の寓りなる」と言ふ古代信仰が見えてゐる。(「形容詞の論―語尾「し」の発生―」P99〜100)

 

B)副詞
 さて、つぎに「副詞」について、その展開を一瞥してみよう。折口は、ここで「副詞」それ自体の発生というより、むしろ〈副詞的なもの=副詞表情〉の発生および展開を考えていることは、先の「形容詞」論と(性格はことなるが)、「展開」論において一般であると見ることができよう。なによりも「形容詞」自体、「副詞」自体が発生するのでなく、まず〈形容詞的なもの〉〈副詞的なもの〉が展開して、〈品詞〉の現存に最終的に行きつく、ということが彼の「用言論」の独特の思考である。
「副詞表情の発生」は(P101以降)、云わば「律文」の表現論とも云いうるものであり、「形容詞の論」と同様、あるいはそれ以上に、〈叙述〉の水準は突出的に考えられている。(だが先にことわっておいたように、ほんの骨格だけしか、ここでは述べられない)
 まず折口は、古代の律文表現において無用とおもわれるような修辞・用例の類型が存在することに着目して、「その文章上の瘤とも言ふべき」(P111)表現が何故に行われたのであるか、その理由、原因を〈熟語的なもの〉の運動のうちに捉えようとする。例で云えば、「消なば消ぬかに(べく)」「おひばおふるかに」「言えばえに(言えば言ひえに)」、その他の表現類型である。
 さいしょに注意すべきことが二つある。ひとつは、これらの類型は〈散文〉ではなく〈律文〉において見出されること、であり、そこには未だ〈散文〉が未成熟であった表現形態の古層が前提されている。ふたつには、これらの類型は文献の中から極めて僅かにしか発見されない、いわば〈除外例〉に近いものであるが、たとえば万葉期における歌の制作が、実際には、収録されたものの幾万倍に及ぶ、という事実から類推して、ひとつの〈通例〉として行われていたものと判断することができる、ということである。(折口は、あらゆる「国語」に関して例外なるものをみとめない――というより、現存除外例を解読することで、むしろありうべき「国語」の全体を把えようとするのである。)
 以下、簡略に、「副詞表情」の経過を記す。

 副詞表情において、〈熟語的なもの〉は、ある副詞句の背後に、呼応の条件の構成をとる文章形式を前提する、という形において現れている。云い換えれば、この呼応の条件の構成が縮小し、省略されていった過程に〈副詞表情の発生〉をみとめるのである。
 まず呼応の複雑な文章形式を構成する「熟語」があり、それは同時にかならず踏襲される〈習熟句〉でもある。呼応の文はこのばあい、多くある特定の対象をもっている。「消なば消ぬべく(かに)」の例で云えば、それは、「天象」の類型であり、「露」「雪」(とりわけて「露」)などである。(消なば消ぬかに…露)この形は反復されるうち、内容を拡げて、他の、例えば同じ「天象」である「霧」や「霜」等にも自由にかかってゆくようになる。
 ここで注意すべきことは、〈熟語〉→〈習熟句〉の形が、〈叙述〉にあたっては文の類型であると同時に心的な内容の類型(表現類型)でもある、といった程の性格を含むということである。そのため、やがて〈熟語的なもの〉が省略・縮小・解体といった過程にのぞむとき、(「消なば消ぬかに」→「消ぬべく」→「かに」「べく」)その省略され「固定断片化」(P108)した形は、ある心的な機制に促されて(「其気分的欠陥を補ふ為に」(P124)、「原型」の内容や指向に関連のある修辞をその上にいくたびも重ねるのである。例で云えば、「消ぬべく」だけで「零雪虚空(フルユキノソラニ)」「天きらし零来雪之(フリクルユキノ)」「鴨草之日斜共(ツキクサノヒタクルナベニ)」等を受けるといった、云わば「頭勝ちの句、文」(P360)の傾向を見せはじめる。これを「歌」の構造について考えれば、第一句から第四句までを長い「序歌」のように仕立て、「消ぬべく」あるいは「かに」という固定断片化した句でもって、そこから上を一挙に「副詞句」にしてしまう、といった形にまで進むのである。
「副詞」の原型は、少くともこのような過程を踏まえて出てきたものであることは注目される。そこでは、表現技巧(テクニック)の、〈叙述〉の空間における変化(変形)自体が、「感情論理の展開」、および「歴史の徐々たる『にじり歩み』」(P103)を表わすのである。やがて、〈副詞的なもの〉は、原型的な「心の対象」とも云うべきものを捨ててゆき、「心の方向」だけを有するようになる。これは、「熟語」の固定断片化が自らの過程をつきつめていった果ての形であると解される。固定断片化した句は、そこで、特定の対象をもたず、その文法的な職分は、云わば一文の全体にかかってゆくようになる。おそらく、この「心の方向」に関してのつよい関係意識だけが残されることで、〈副詞的なもの〉は、他方で、〈伝承句〉のたぐい、〈諺〉的なものの、〈叙述〉の空間を能く媒介するような働きをもつに到るのである。(P111以降、「とも」に就いての論述を参照)(折口によれば、それは〈“とも”など〉比喩法における「否定法」の起源をなす。)
 折口は、「副詞」発生の過程を、最後につぎのように概括している。


  …その波のいやしくしくに、わぎも子に恋ひつゝ来れば、あごの海の荒磯の上に、浜菜つむ海部処女(アマヲトメ)等が、纓有領巾文光蟹(ウナゲルヒレモテルカニ)手に纏(マ)ける玉もゆらゝに、白栲の袖ふる見えつ。あひ思ふらしも
 決して、単に纓有領巾文だけを照るかにで受けたのものではなかつた。尠くとも、あごの海以下の句は、最初は詞章を構成する筈であつたのが、卒然として、「かに」によつて、副詞句化せられたのである。かうした長い副詞句が、元は文章であり、又、其が為に、文章的でなければならなかつた為の条件法を具へた副詞句が、次第に単純化せられていつた。さうして「けなばけぬかに」が新しい発想法の上から「けなばけぬべく」と直り、更に「けぬべく」だけで訣る様になり、愈端的に、「露霜」など言ふ所謂序歌的なものを全然ふり落す様になる、さうした径路は、まだ実は半分しか辿りきれて居ないのであつた。(「副詞表情の発生」P124〜125)

  

 そして、折口の〈叙述〉に関する何ごとかの主張は、〈副詞的なもの〉に集中的にその経路が示されているように、「言語詞章は、常に複雑から単純に赴く。」(P126)という一貫した論理の展開を、見ることのうちにあったと云える。
 私達がここからなお、見つけることのできる問題があるとすれば、それは、現象的には単なる「省略」過程、「熟語」の縮小過程を示すにすぎない「副詞」の発生が(また「発生」の総体が)ひとつの心的な動因を厖大に含んだ、記されたものでも〈会話〉の状態でもない、ある「言語意識」そのものの展開として捉えられ、常在する心の事実にあたう限り近づけられる――といった〈至近〉にひきよせられた彼の「言語理解」「国語理解」のなかで、私達自身が、ある意味で〈徹底〉的であるしかなかった折口の「学」と「国語」の固有の、不可逆の現存につきあたってしまう、という感覚のうちにある。
 それは、云わばどうしようもないほど、動かしがたく、不透明であり、また〈徹底〉的である。折口はここでも〈双面〉的である。〈徹底〉性と〈曖昧〉さが同義になるような地点で、彼の想定する「国語」が巨大な実在をあらわすように思われるのである。そこで折口は、折口自身の側で、依然として匿された部分を持ち続けているように、私には感じられる。はじめにも述べたことをくりかえすが、私達と「国語」との関係は、〈徹底〉的であるにしても(それ以外にないとしても)、〈絶対〉であるのではない。それは、現実が私達にもたらす〈徹底〉性が、どんな意味でもそのまま一義的な〈絶対〉性をもたらすのではないという私達のたしかな感覚だ。たとえ、ひとつの〈絶対〉性が現実を包摂することがあるにしても、だ。
 このずれゆきが何ごとかの有意味性を象徴するものであるならば、折口の厖大な〈仕事〉の内実は、この問題を〈解決〉するのでなく、また決して〈解消〉するのでもなく、徹底して、「国語」の〈実在〉の側につくことによって、その秀れた視力のとどく最深の場所で私達にある微妙な裂け目のようなものをあらわし続けているように思われる。そして私達がこの折口の〈仕事〉のうちに、もしひとつの批判(クリチック)の構造を透視しうるとすれば、この、あまりにも効きすぎるように思われる彼の視力の背後に、私達の現在にも依然として通底してくるひとつの理由が感覚されるからにほかならない。
          以上


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