1 言語観
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1 言語観



 折口信夫の「国語学」で括られる論攷について、それを「国語学」と呼ぶことにさえ、あるためらいを感ずる、というよりも、言語意識の筋肉のようなものだけが捉えることのできる国語の「事象」が、ひとつの特異な選択の感覚を私達に強いる、と言ったらよいだろうか。
 はっきり言って、折口の「国語学」は、彼のライフ・ワークである古代文献の渉猟・詞章解釈の仕事の内での、たんなる原理的な部分の集積であると考えることもできる。ただ、通常の近代的な「国語学」が、つねに少しずつ一般的言語学の方面へ貌を向けてゆくのに対して、折口の、いっぱんには「言語=詞章」解釈の予備部分にすぎない思考が、(古代)詞章についての原理的な直観からはじめて、ただちにもっと巨視的な「日本語」の本質、あるいは「言語」意識そのものの実相が占める領域に接してゆく、といったいちじるしい対照が私達に何ごとかをものがたるところで、折口の固有の「日本語理解」は特異な「国語学」たらしめられているといえよう。
 通常の「国語学」がひとつの単語を位置づけようとするとき、折口のそれが位置づけるよりさきに単語を分解し、語の活用を論じるときに語自身が形成されてくる過程を観察し、「文体」の価値を計ろうとする場所で「文体」でなく、端的な「文法」を論じている、といった落差のなかに、「言語学」ではなく、もっと私達の現存に近づいている「言語論」的な何ごとかを見出すことができないのなら、なにも「国語学篇」などはじめから苦労して読む必要はないのだ。
 単語の分解からはじめてまず「語根」という概念に逢着し、「語根」が屈折することによって端緒の体言・用言が生じ、さらに浮遊する語尾とみなされるものが広汎な熟語構成の流れとあいまって「活用」を発生させ、それがいくたびも複雑に反覆されることによって、「日本語」の全体の合理解的な現存にちかづく――というような、折口の語・詞章解釈にとっては必須のものであったと考えられる「言語=日本語」への視角は、上古を閉鎖し分離するのでなく、上古における発生的な理由そのものを「言語」の特有な在り方のほうへ時間的に拡大させる視角であることによって、私達に、たんに上古詞章の研究であるばかりでない、ひとつの「言語の本質についての叙述」として彼の「国語学篇」を読ませることを可能にしているのである。
 折口の、たとえば「古語」に対する観察態度(セオリー)が、決して「恣意的」でない、「言語」そのものの直観の基礎のうえにたっていることは、つぎのような発言にもうかがわれる。


 言語文法に関する研究は、誰でもその言語文法の末に関係して生きてゐるが為に、必一言を加へる興味を持つものであるが、その為に、わづらはしい似而非知識が混つてくることの、避けられない場合が多い。(原文改行)まづさうした間違いが、我々は生きた語を使つてゐるのだから、何よりも現在行はれてゐる口語の文法があるべきだ、と主張する人の多い事に見えてゐる。だが、少しの誤謬の混つてゐるのを構はずに言へば、文法と言ふものは、或時代の言語に就いての統計を作る様なものであるから、或時代の言語が発達の極度に達し、更にまう一歩、滅亡に近づいた、或は生命を失つて了つたと言ふ、静止の状態に立つてこそ、本道の姿が見られるわけである。現に生きて走つてゐる様な状態にある言語の、あらゆる姿の上に、冷やかな観察が行はれるかどうか。厳格に言へば、それは望まれないことである。(「国語学」全集第十九巻P336――「全集第十九巻」は以下すべて略す。なお、原文の仮名づかいはそのままだが、漢字は現行のものになおしてある。)

 言語の死滅と言ふことは、簡単にきめてしまはれないもので、死にきつた、廃滅したと思つたものが、何代か経て、ゆくりなくも復活する事もあつたりするのだから、さう言ふ言語を連ねた文章が、必しも死語となつてゐると言ふ事は、まづ考へられない。第三国語、第四国語と言つた程度で、我々は、それを心の中に生かしてゐるのである。古代のは文章を読んだり、歌を読んだりする場合は、誰がそれを完全な、死者の書として眺めてゐるだらうか。事実、万葉集を読み、古事記を読み、祝詞・宣命を読む時、およそ或程度まで、第三の国語として生きた感覚を受けとつてゐるのである。(同・P410)
 
 …国語学者の前にある、完全な古語の連鎖は、国語文化の上の化石として取扱ふ事が出来る筈である。かうなつてこそ、完全な客観的態度をとる事が出来る訣で、実は比較研究は、かうした語の上に、完全に行はれる筈だ。(原文改行)所が、在来の国語研究は、語がまだなま(2字ルビ点)である中から比較してゐる。それが却つて生命の比較にもなつてよい訣であるが、何か客観しきれぬものがあると感ぜられる。(同・P411)

 一体言語には、或傾向が宿命的に備つてゐるもので、嘗ての言語の上に現れた事実が其後も、他の言語の上に、同一の理由として働いて来る。と言ふよりも、其理由を含んだまゝに、言語そのものが輪廻してゐる。(同上)


 ここで語られていることは、まず「言語」が人間の対象的な意識にとって最も〈至近〉なものに属するということである。いわば、把握の向う側にある対象ではなくて、把握の手前にある、というよりもむしろ、把握する作用自体が把握すべき対象であるといった「矛盾」のうちに、言語研究の根底にかかわる性格を見ているのである。その固有の性格によって、「国語学」的対象としての「古語」の還元を徹底化させる必要性が、まるで逆説のように説かれている。
 ありうべき一言語の統合された総体を、そこに樹があり石があるのと同じように、ある「実体」として客観的な観察の可能なものとするためには、「言語」はいったん「死」ななければならないと折口は言う。すなわち、あるいは衰亡し、あるいは「化石」となった「言語」のうえにこそ、ひとつの「学」と言いうるほどの観察が行われるはずだ、とみなすのである。ここで私達が、折口の「言語」理解のうちに見ることのできるものは、時間の隔たりが「言語」(一時代の言語)の実像を与える、ということよりも、まず「言語」と言うものが私達にとって明瞭な直接性であるということだ。折口にとってそれは一個の問題であり、謎の深さを指し示すような「自明性」であった。
 それが私達の「環界」のように、何等かの「障害」や「断絶」を介してでなければ截りはなして意識されないひとつの「自然」であるという意味では、「言語」は自明性であり、それは現行の言語生活の「生命」のようなものとして、折口の所謂「口語文法」のうちに完全に包括されるべきものであるが、いっぽうで「言語」はそこに必らず、ある関係、ある累積をまとわりつかせてゆく必然を持つ現存であることによって、私達の「環界」のような自然性にむかって逆さまに接近してくる〈遠隔〉の言語、所謂「文語文法」という他方のぬきさしならぬ極をあたえる。それゆえ、「根本において、口語文法と言ふものは、大きな矛盾の上に立つてゐることになる。」(P320)わけである。
「文法」はふたつあり、観点もふたつであることが可能だが、言語(国語)はひとつなのである。と、言うよりも、どこかしらでかならずふたとおりの見方を強いてくるような在り方のうちに、「言語」の固有の現存を捕らえるべきなのだ。そのものの意識にとっては最も〈至近〉であり、そのものがはたらきだす結果において端的な人間存在からはるかに遠方におよぶ、といった「言語」の二面は、それならば実はひとつの「運動」として捉え返されるはずだ。ここに、折口がその「国語」研究に際して択んだ方法が明瞭な理由を持つと云えるだろう。
 折口にとって「運動」とは「発生」という別名で呼ばれつづけた一総体にほかならなかった。「言語」は先験的に発生するのでなく、まず発生的に存在するものであることで、ひとつひとつの語はつねに動揺と展開を孕んでいる。この端的な事実が、げんみつな客観化の作業の結果である「国語文化上の化石として」の「完全な古語の連鎖」のうちに、むしろ作業の結果として露出してくる。そこから、「同一の理由」を含んだままで「言語そのものが輪廻してゐる」ことが、対象化され、たんなる実感である以上に一個の「理解」として獲得される。それは別面からかんがえれば、「完全な化石」として眺められた国語としての古語が、「完全な死語の範疇」に括りきることのできない、ある言語的な現在性を帯びたものとして、私達の側のひとつの合理解過程(=「生きた感覚」)に入ってくるということの本質的な説明をもつけさせるはずだ。
 おおよそ、このように折口の「国語学」の方法を読み込むことができると思うが、ここで言語の〈遠隔〉は、げんみつな客観化の作業を強いる、文献として残され「解読」をもとめている「古語」に、また〈至近〉は、どこかしらでかならず(私達の)合理解過程に入って来るような、絶対に異なりながらひとつの普遍を交換する前代の人間と私達との、常在する心の状態に、それぞれ見定められていると考えられる。そして、私達の場合、言語は、まず〈至近〉がありそこから〈遠隔〉が深く気づかれてゆくところにさいしょの可能性または不可能性があらわれる、というふうに過程をもつが、折口は方法においてこの形をいったん逆転させる。すなわち、まず「古語」(国語としての)があり、そこから〈至近〉性を「日本語」の全体に関してとり返してゆくことの向う側に、窮極的な可能性または不可能性を見ている、といったように。
 ここで、「言語」における〈至近〉と〈遠隔〉という分極の在り方は、固有の「国語」的事象をとらえる折口の「方法」のうちで、語の発生と発生する語との絶えざる往還として、不可分の一体であることができる。そしてこの一体であるものは上古から現在まで垂直に眺められる過程で生きており、生きている分だけのおおきな不透明さに、折口の思考もまた徹底して即応してゆかなければならない。


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