入院記
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入院記




2002年

12月15日(日)晴れ
6:30、体温36.6度、朝一番で便通あり。
11:00、血圧128−80、体温36.8度。

14:00、教育テレビで白川静の番組を見る。迫力ある「講義」に圧倒される。これで90歳を越えているのだ。
16:00近く、平塚さん来る。謡曲台本6冊。1時間半ほどしゃべって、おみまいにチョコレートをもらう。実のところ、ありがたい。

20:00由利帰る。


12月16日(月)晴れ
2:30頃目が覚め、座薬(註:ボルタレン=痛み止め)。7:40現在、痛みあり。
9:00家に電話。由利風邪引く。電話後、座薬。そのあと担当ナース・稲葉さんが私の話を聞きたいというので、デイルームで話す。癌と痛みについて。
10:30、血圧136−80、体温36.6度。

 習作
葛の葉の浦見にゆかん国府の海
葛の葉のうらみがほなる野相公

14:00過ぎ、教授回診。一瞬のうちに終わる。
悪性腫瘍を持つ人間にとって、この整形外科の、病室、医師、スタッフ等が、カミュのいわゆる非快適なものであることに、徐々に気づく。だいたいからして、検査の明白な結果を告げるさい、医師(T助教授)が「すみません」とあやまるのはどういうことか。(註:稲葉さん以外の)ナースも私のことを知ってか知らずか、「すみません」を繰り返す。知ってか知らずか、同室の入院患者も私と口をきこうとせず、目も見ようとはしない。


12月17日(火)晴れ
2:40座薬。7:00現在、痛み昨日と同じ。あと2時間はガマン、か。何もする気になれないが、かといってじっとしていても、苦痛だ。9時5分前、座薬。
10:00少し前、笹本医師来。話を聞いてもらい、少し安心。患者という存在は、弱いものだ。
朝、連句捌きの通信文を書く。1号館のファクスで送ろうとしたが、説明文のまるで分らぬ、ダサいキカイでうまくいかず、100円盗られる。
由利風邪重く、来られない。10:00過ぎ、座薬やっと効いてくる。

病院食を食ってみると、トンカツだろうがステーキだろうが、みな味付けの粗雑な、救いのなさを感じる。それに比べ、(しばしば由利はいないが)昼のわが家の食事、炊きたての飯と、好きなような味付けと具の納豆、焼き海苔、酒盗のなんとゼイタクなことか。当たり前とはこのようにゆきたい。

由利インフルエンザ第1号。重篤。

14:00頃、緩和ケアチームの前原医師と話す。いろいろ話す。
17:00、坂井(信夫)さん来る。金2万円借。救世主。由利に電話、メシはちゃんと食えと。米、野菜、卵はあるという。明日一日くらいはなんとかなるだろう。
18:30過ぎ、消毒に来たI医師の話。キズ口きれい。抜糸金曜になり、すぐ退院可能。(鎮痛は)眠る前だけ、座薬ではなく経口薬(註:ソセゴン)を用いよう。やや明るい気持ちになる。点滴今夜限り。今夜で針が抜ける。アモバン(註:睡眠剤)もらう。
(朝10:30、血圧146−86、体温36.4度)
由利いろいろな症状現れる。インフルエンザではないかもと言う。
痛み止め、ソセゴン25mg。


12月18日(水)曇りのち晴れ
座薬なし経口剤、夜間の鎮痛失敗。いきなりはやはりムリ。ボルタレンだって、うまくいくまでに丸24時間かかったのだ。現在午前5時。座薬を使い、この時間までは(比較的)スムーズに眠れたが、もう疼痛が始まっているので(それほどのものではない)改めては眠れない。デイルームでお茶を買い、こうして起きている。

前原医師のことを思い出し、彼の顔が誰かに何となく似ていると思ったら、それはノーベル賞の田中さんの顔だった。前原先生はメガネをかけて浅黒いが。

鎮痛剤は時間が来たらさっさと使うこと。5:30、ボルタレン使用。

誰も神の目を持つことはできない。しかし、ある高さを仰ぐことはできる。神がいるかいないか、じつはそんなことはどうでもよい。食べ物のように、水のように、空気のように人間に必要なものは同時に高さなのだ。このあいだの、白川静氏の話に感銘を受けたのは、氏の世界観がいかに古典的なものであろうとも、二十世紀までに人間が獲得した、まことに高々としたイデーが強烈にそこに存在していたからだ。今人間はこれらを何かとてつもなく野蛮なものと取り替えようとしている。

 京浜工業地帯望見
夜をこめてコンビナートの闇は炎え密(みそか)にうたふわが「横浜市歌」

10:30、血圧150−90、体温36.8度。
11:20過ぎ、あと10分あるが、かまわずボルタレン使用。
11:50、ベッドのなかで背を反らし、天に向けて小さな弓で小さな矢を放つキューピッドのような恰好でいると、少し苦痛が和らぐ。(詩想)

時間が来ると決まって空腹になるが、私にとってこの三度の食事は苦痛そのものだ。食べること、飲むことは重要な生の部分だが、私のなかで病院にいるということが、そういう位置を占めることは絶対にない。ゆえに「食餌」はすばやく済ます。

こんどの「索」に出す定型詩稿、タイトルを変更し、「隠国」としよう。

この病棟のデイルームは日が入りすぎて、みんな遮光カーテンを閉めてしまう。デイルームならぬブラインドルーム。自販機のセンサーが暗さを感知して、昼間なのに発光しているというふしぎさ。日の当たる場所にしばらくいるようにしているが長くはいられない。この病棟と同じように。

朝日夕刊「花おりおり」愛蔵版、欲しい!


12月19日(木)曇り
ソセゴンはダメ。2夜つづけて鎮痛に失敗。ソセゴンを服用してもボルタレンがフツウに切れる時間になると極くフツウに痛い。これでは何のための麻薬か。現在5時5分前。ボルタレン、ふたたび切れて眠れないのでデイルームにこうしている。
 一案
夜をこめてコンビナートの闇は燃え密にうたふ「わが日の本は島国よ」

病棟の七階は空の上で、地上近くとは違った鳥がガラス窓の向こうを行き交う。(詩想)天上、キューピッド。

終わりよければすべてよし、というが、しかし人生を物語のようなものと考えるのはいかがなものか。親父の場合、学校を退学し、満洲に渡り、性格の合わない妻を娶り、ラーゲリに入って、出ることができて日本に帰り、ちょっとばかりの栄達、待望の子供(ことに私)を得、職を次々と替わり、いろいろあって家族に見切りをつけられ、老人病院で(おそらくは)失意と絶望のうちに死を迎えた。誰に看取られることもなく。これを一篇の小説のように解したら、悲劇にほかならないが、父は、いい時もあり悪い時もあり、たまたまあとのほうの時にあたって人生を終えただけなのだ。(母だって似たようなもの)文学の源泉は人生だが、しかし人生をあまり文学的に考えないほうがよい。死はすべての人に平等にやって来る。
本棚の裏側に落っこちたペンを拾うように、死を拾う。(詩想)

 担当ナース稲葉さん、いつも忙しそう。習作
いでて稲葉行ったっきりで戻らない

9:00過ぎ、胸部レントゲン、1枚。
由利に電話。ダメソセ、ヤメロ。内科で処方を。
ふと、家持の「いささむら竹」の歌を思い出す。その「かそけき」音は、まだいくぶんか、古代の幽暗なひびきを伝えていたのだろうか。
10:30、血圧140−90、体温36.3度。

12:00前、梁医師来。説明。基本は(前と組み合わせを変えた)化学療法。根本的な対策として。臀部の症状を抑えるための放射線療法と並行してやる。年明け入院1か月。それまで鎮痛にはモルヒネ系を用いる。ボルタレンも副次的に。ソセゴンといっしょは絶対ダメ。次の木曜診察。入院時(?)腫瘍マーカー測定のための採血。放射線(たぶん)15回。すべてが明快。うまくいけばいい。また5号棟だが。

病気のことを甘く考えてはいけないと思ってはいるのだが、今回の一連のことで反省しなくてはならないのは、ものごとを、どうしても軽く、安易に、甘く考えたがる傾向である。むずかしいことだが、甘く考えないことと、暗い方向に考えてしまうこととは別だ。


12月20日(金)晴れ(薄曇り)
5:45、西の空に夕陽のような色をした巨大な月が沈もうとしている。
6:00、ボルタレンを使うが、新しい処方の薬(註:モルヒネ系の経口薬でMSコンチンという)、さすがにソセゴンとは違っている。これははっきりしたことだ。

昨夜、亡くなった芸能人の特集番組で、江利チエミの歌う「テネシーワルツ」の音を聴き、原詞の歌詞を目で読んだとき、声をあげて泣きそうになる。こらえたが。今、私にとって音楽とはかくも胸を引き裂く、決定的な存在となっている。いつでも聴くたびに、音楽をもう永いあいだ聴いていないような気がしている。

マルクス=アウレリウス「自省録」

8:00、MSコンチン服用。9時過ぎから10時20分くらいまで、眠気に見舞われる。ウツラウツラ。
10:40 血圧134−96 体温36.7度

(註:これより痛みを10段階で表す表記開始)
12/18 ボルタレンのみ10(切れかかる頃)。
12/19 20:00MSコンチン、0:00に目覚めボルタレン。9。MSコンチン2錠。
12/20 6:00ボルタレン、8:00MSコンチン。3。11:30痛み4(きのうは11:00に痛みだす)。ボルタレン使用後1時間、感覚はこわばり程度。痛み0。

12:00過ぎ、脳外科診察。腫瘍、もはや痕跡となりつつある。右握力50kg近く。
14:20由利帰る。現在抜糸まだ。
16:00頃、めでたく抜糸。会計来る。17万ちょっと。明朝、10時過ぎに整形外科とオサラバ。かへりなむ、いざ。


12月21日(土)曇り
痛み、12/18のボルタレンのみに比して、3〜2。もっとも効いているあいだ、1〜0。いまのところ、MSコンチンとボルタレンの併用がいいようだ。ゆうべは1:30までぐっすり。ただし、痛みで覚醒した、その痛みはかなりのものだった。ボルタレン使用後、30〜40分ほどで朝の6時ちかくまでぐっすり。朝の目覚めは自然なもので、痛みによるのではない。
舌の先にポチッとした炎症があって、食事時など、痛い。
9:30着替える。
(すなわち帰宅へ)



2003年

1月7日(火)晴れ
(5回目の)入院。担当ナースはまたまた遠藤さんという。11:30頃、血中酸素濃度97、血圧124−96、体温36.9度。明日、治療計画の説明ありという。1月いっぱいで出られるのではないか。疼痛、あいかわらず。MSコンチン今夜より増量という。夕方、今日の担当高橋さんに食事時の禁麺類(註:麺類が好物なので、むしろ病院食で出されたらたまらない)、禁牛乳(註:牛乳は体質的に合わない)申し出る。由利が帰った14:00から16:00まで、猛烈な眠気に襲われる。夢を見るほどではないがウトウト、極楽のキモチ。モルヒネの功徳か? きょう13:00より24時間、蓄尿。16:15、X線単純撮影スミ。16:30、心電図スミ。(技師が心電図の)機械を部屋の壁やベッドにぶつけながら入って来、ぶつけながら出ていった。夜勤は中川ナース。

マルクス=アウレリウス「自省録」読み始める。従来の私の読書のようにではなく、少しずつ、ゆっくりと読んでいこう。岩波文庫。

MSコンチンの新しい処方の前に。今日の疼痛5。20:00、血中酸素濃度98。18:00の座薬挿入ギリギリまで、案外痛くない。確実な、核(たね)のような疼痛はあるが。夕方、ボルタレンの前に試みたトイレで排便あり。見てみるとちゃんとした1回分。1日おき、ということか。体重67.45kg

「自省録」第三章の二。驚嘆すべき詩的言語。

(詩想)年若いナースは言った。この錠剤を飲んで夜中に起きあがると、強い作用で倒れてしまうかも知れないので、かならずナースコールで呼んでくださいと。彼は真夜中の闇のなかで独りで起きあがり、デイルームを正確に指して歩いて、倒れ込みもせずにベッドにまた戻って、横たわった。死すべき存在である彼において薬の邪悪な側面は働くことを得ず、ただほとばしる甘美な酒のような薬効だけが、真夜中の彼の影のうちに、ひとつの灯(ともし)のようにあかあかとたもたれていた。


1月8日(水)晴れ
ゆうべ1:00、座薬用いる。その前にアモバンも。なかなか眠れず。7:00少し前起床、7:30現在、ボルタレン使うか使わないか、痛みは微妙なところ。とりあえず1錠、もらっておく。8:55、MSコンチン50mg服用。ボルタレン未だ。痛み3〜4。9:30、脚の付け根より採血(医師による)。遠藤ナースと再会。朝一番でも採血あり(5〜6サンプル?)。
10:00、疼痛5まで上がったのでボルタレン使用。9時間、もった。しかし、これからは痛みギリギリの線まで我慢しないこと。
気がつくとベッドの上と下に、使用済みアルコール綿と注射針のキャップが打ち捨てられている。採血の医者だ。あのガキめ。「痛くないよ〜」とのたまったが、採血もけっこうなものだったぜ?
10:30、血圧130−90、体温36.6度、血中酸素濃度98、遠藤さんにこれまでの経緯あれこれ語る。

11:20、梁医師との面談。治療方針。こうして出てしまった以上、少しでも小さくなれば――否、現状を維持することができれば、治療成功とする。むしろ増悪の可能性あり。最後の選択肢としてイレッサを考えている。この薬は一般の抗癌剤と異なり、効かない人にはいっさい何等のレスポンスなく、合う人には劇的に効く。

入院生活で評価できることは、それは独房と同じく、考える時間だけはたっぷりとあるということだ。それを豊饒な時とするか否かは当人次第だが。

明日10:00過ぎ抗癌剤投与。カンプト170mg、ジェムザール1700mg。前後の吐き気止めは従来どおり。約3時間。8日後にもう1回。遠藤さん説明。

トナリのおじさんも同じ再発(肺)・治療。おしゃべりで軽く、私の好きでないタイプだが、しかし、病の前では万人が平等である事実を思うと粛然とせざるを得ない。死に対する恐れ、それを隠したり越えようとしたりするための軽侮、怒り、嗤い――みんな私が見てきたことであり、してきたことばかりではないか。

私の中の癌の病像が、少しばかり、今日の梁医師その他の説明により変容してきているようだ。もう少しリアルに、というか立体的に。

夜勤H。このあいだの入院時に比べ、かなり肥って、見違えるほど明るくなっている。
17:30ごろ、薬剤師来る。話すうち、智恵もわいてくる。とりあえず今夜22:00、ボルタレンを使い、8時間の睡眠を確保することをめざす。MSコンチンの増量の効果が現れるのは明日以降とのこと(3日くらいかかるそう)。気づいたのは、痛みには腰かけることがよくないようだ。殊にベッドぎわに腰を浮かせるような姿勢が疼痛を呼ぶように感じる。寝てばかりもいられないのではあるが。

18:30過ぎ、建物の南側のバス通りで、ものを叩く音、大勢の男の声がしたので何事かと窓を見ていたら、先のトナリのおじさん(トオミ氏という)が、あれは寒行だと教えてくれる。ここは本門寺が近いのだった。これはお題目だが、鶴見でも総持寺の衆が同様の行をおこなっていた――そんな話を同病のオジさんとして、少し親近感が湧く。


1月9日(木)晴れ
5:20、覚醒。腹部(胃)に鈍痛感ずるも、とにかく患部が痛いのでボルタレン使用(註:ボルタレンの副作用は胃腸に来る。癌患部の疼痛とは別)。これでも7時間以上もったのだから、まあ、良いのではないか。お茶を取りにデイルームへ行くと、健常人5〜6人が集まって「誰それに連絡したか」などと話し合っている。誰か(おじいちゃんかおばあちゃんか)亡くなったようだ。大して悲しそうでもなく、沈痛でもなさそうだから。
きのうの夕方から夜にかけての胸のムカムカ、(就眠の前後あたりからだが)キレイにとれている。温かい茶を喫むと腹部鈍痛も収まってゆく。
6:30〜7:30までウトウト。Hが様子を見に来たので覚める。痛み・眠りの具合はどうかと。おおむねうまくいったと言う。彼女、明るくなったがその明るさには何か無理があり、肥ったが、何となく不健康なことに、昨夜から気づく。

眠りにはすぐれたリセット作用があると思う。

「何物をも待たず、何物をも避けず……」(マルクス=アウレリウス)

きのう、梁医師がいみじくも言ったのでここに記しておく。
「(イレッサ等)副作用による死の確率が1000分の1、ないし2000分の1くらいなら、それは冒すに値する危険なのではないか、少なくとも癌という病気に関しては」

10:35、点滴開始。予定は2時間40分。カンプトは初めてだが、若干痛いみたいだ。水分を摂ること。しかし(この)抗癌剤の毒が効いてくれることを希う。そのあとジェムザール。
11:15、血圧144−98、体温36.7度、血中酸素濃度98。

午後から夜まで続いた吐き気、19:00にトイレでもどすこと、および(あるいは?)点滴により、20:20現在、落ち着いている。抗癌剤の副作用によるものとしては初めての経験。苦しいものだが、(二日酔い等で)まったく知らなかったものではない。これらを見届けたのち、20:00過ぎ、由利帰る。夜勤遠藤さんでヨカッタと言いながら。(火・水・木と結局夜はアモバンをもらう)明日よりMSコンチン100mgから160mgに増量。つまりボルタレンをなるたけ用いない方向へ。


1月10日(金)晴れ
昨夜21:00直ちに就寝するも23:30までまったく、ウトウトともせず。精神神経症的な若干の不安感あり。遠藤さんを呼んだが、これといった方法もなさそう。あれこれ(30秒〜1分ほど)話すうち目がしぶくなってきて、その後4:00まで眠れる。痛みによって覚醒し、ボルタレン使用。痛み6。のち、6:00過ぎまで眠れる。
夢で、Uの手配により仕事場をなくす、というのを見て、かなりの不安感・焦燥感を覚えたが、今までの悪夢と違う点は、そこで仲間と「彼の手配はオカシイ」と言い合えた点だ。全くの独りではないという感じ――これは教訓とするに足る。
7:30、食前の吐き気止め。胃がほぼ空っぽなので、少々の気持ち悪さぐらいはある。朝食をとるのに影響はないだろう。
8:00過ぎ、朝食用心しつつ3分の2ほど。気分は悪くはないが、全くスッキリというのでもない。9:00、増量コンチン80mg服用。現在痛み2〜3程度か。昨日より便通なし。

(註:これより月曜まで外泊へ)


1月14日(火)晴れ
8:30、帰院。今日検査盛りだくさん。9:00少し前、MSコンチン。痛み3程度、というところだろうか。9:30、担当日勤H顔を出す。冗談めいたことは一切言ってやらない。9:50、採血スミ。9:40頃に梁先生来。ボルタレンまだ使用か、という表情だったが、(鎮痛は)放射線に期待するとして、このままで(コンチン160mg、ボルタレン2錠)いこう。便の具合訊かれるも、何だか今週金曜より外泊OK出そう。

体温37.3度、血中酸素濃度96、血圧120−82、体重65.6kg。

14:30〜16:00。検査等一挙。腹部超音波、異常なし。大きな安堵。放射線外来は、全15回45グレイと決定。1/16(木)より開始、11:15〜。CTあっという間。2号館の地下で「将角」(おかき)と新聞、ミルクコーヒー購入。18:00、私分の夕食が忘れられている。昼食ヌキにも拘わらず。胃というか、全体の調子がヘン。病院として、こういうことは絶対しないでもらいたい。心ならずも、ナースにあからさまな不機嫌顔を向ける。ヘルパーさんに明るくふるまうのもかなりの努力を要した。彼女らが悪いわけではないことは重々承知。


1月15日(水)晴れ
5:00起床。ゆうべ零時、痛くて起きる。すなわちボルタレン。しかたがない。昨夜から書きかけの詩、デイルームにてほぼ完成。病院で詩が書けるとは思わなかった。28行。タイトルは仮で「綺羅」。家に帰ってワープロで「ロンダリング」してみないと何ともいえない。とりあえず「コール・サック」用。
10:30、血圧140−92、体温36.7度、血中酸素濃度99。


1月16日(木)晴れ
7:00前、採血。ヘタッピー。ゆうべの悪心、一晩寝て収まる。どうしたことか? 今日再び抗癌剤。夜、盗汗。
10:30、血圧130−76、体温37.2度、血中酸素濃度97。遠藤さん日勤。白血球3300まで落ちる。炎症反応(CRP)も若干上昇。彼女、抗癌剤は今日微妙ではないかと言う。夜の盗汗、微熱時にボルタレンを使うと熱発のこともあると。
11:00〜12:00近くまで放射線科。位置決め、撮影等で時間かかるも、次回以降は早くすむとのこと。12:00、食欲オウセイ。13:00、結局、抗癌剤(投与)実行と。よろし。14:00、点滴開始。予定3時間。夜、吐く。


1月17日(金)晴れ
覚醒は4:30頃、また眠ってつぎは6:00過ぎに起きる。悪心は消えたといえるが、胃の中が空っぽなので気持ちわるい。デイルームで熱い茶2杯とオカキ2枚。デイルーム(に置かれたテレビ)のNHKの画面を見ながら、全力でラジオ体操をやっているおじさんがいた。気持ちはわかるが――という気持ち。
昨夜、肝に銘じたこと。悪心はつらいが、痛みよりどれほどましなことか。悪心は、解決ではないが嘔吐という帰結(その時々で)があるが、痛みにはしばしば終わらない地獄、ないし転帰をとるとしたらその先にはしばしば死を思わせるものがある。今日、外泊。

体温36.5度、血中酸素濃度99〜100、血圧118−78。


1月20日(月)晴れ
帰院。
血中酸素濃度96、体温37.4度、血圧124−78。
10:30、5417号室へ転室(非差額ベッド)。白血球数3900。
留守電により、護国寺へ。仕事をもらう。27日納品。帰宅中、作品一つ。18:45、今回の入院で初めて、病院で脱糞。堂々たる1回分。練り具合申し分なし。


1月21日(火)晴れ(夜中、霰という)
4:45、1回目起床、お茶ののち、眠り込み、7:10覚醒。8:40、痛み3ちょっと。13:40、体温36.8度、血圧140−80、血中酸素濃度98。


1月22日(水)晴れ
イマムラ氏の吐く物音で4:00少し前、覚醒。眠れないので、スタンドを点けて起きていたら、隣のTのおじさんが今度はこっちに眠れないとクレームをつけてくるので、しようがないから、4:20現在、デイルームにいる。眠剤(スイミンヤクと言っていたが)を使っているとのことだが、ここで目が覚めて眠れなかったらアウトだろう。また、私が彼を起こしたのではない。私が覚醒したとき、トイレに行ったら彼はすでにそこに入っていたではないか。
5:00まで、仕事半分(110頁前後)。10:30まで、仕事95%。昨日、待望の「地上」Vol.32届く。10部もらってしまった。同じゲストで木村恭子さんが書いている。また岡田恵美子さんからも「ポエムTAMA」(?、名前忘失)いただく。10:30、血圧116−86、体温37.1度、血中酸素濃度96。

リニアック室(註:放射線治療室)のBGMは、今日はMJQの古典的名演「ジャンゴ」がかかっていた。35年前にくりかえし聴いたインプロヴィゼイション、何が次にくるか、ほぼ完璧に覚えている。自分でも驚いた。あのころ、ライナーノートにいろいろ書いてあるのを読んだが、ジャンゴ・ラインハルトがどういう存在か、そしてあの曲がどんな実体を意識してプレイされたものか、理解するまでに3分の1世紀かかってしまった。(相方の)ステファン・グラッペリを必然的に連想し、その死を考えても少しも暗くならない、むしろ幸福なぬくもりを感じている、今日の自分にも少し驚いている。痛みがないとはこういうことなのか。


1月23日(木)曇り
21:00より6:00までぐっすり。9時間も眠ってしまう。痛み、どうしたわけか、比較的ある。眠りすぎて、ずっと同じ(動かない)恰好でいたせいかと自分では考えている。こういったパターンは今までよくあったので、そう思うのだ。8:40現在、案の定、痛み消失の傾向にあり、いまはラク。
10:45、血圧136−70、体温37.6度、血中酸素濃度98。採血の結果。白血球2000、と減少。ナースはCRP、RBCともに悪い値だと言うが、これは前回とほとんど変わりなし。熱が高いのが気になる。
11:00〜11:45、帽子、マスク、オーバーコートと完全重装備でコバルト治療往復。寒く、熱っぽく、頭の片隅痛く、霰交じりの、まったくもってイヤな日。(にもかかわらず、午前中、病棟にカサイ=前回入院時同病棟で遊びに来た=あらわる)

14:00、白血球数上げる注射。17:00、体重67.0kg。20:00ごろ、体温37.3度。
18:00、1階のレストラン「B」。夕食最悪。あれをエビフライと称するのは詐欺にひとしい。


1月24日(金)晴れ
5:00少し前、起床。21:00からほぼ一直線の睡眠。起きてみると、熱はどうやら下がっているみたいだ。デイルームに、一式一具を持ち込み、現在、こうして書いている。仕事も。
6:15まで仕事。体の芯(とくに脚の付け根)のあたりに疲労感が溜まってきたので、ひとまず中断する。起きてきたイマムラ氏と朝の挨拶。少しは気分がいいのだろうか――けさはむこうから声をかけてくる。東のサンルーフを見る。夜がくっきりと明けはなれてゆく。

帰宅中にすること。おそらく、26日中、託稿の仕上げ。作品「渡し守」の清書・完成。次作のメモづけ。(ジャンゴ、ステファン・グラッペリ、音楽を聴く――上等な食べ物を食べるように――あるいはまた「富士山」等)。北沢氏へお礼、「地上」発送(手配等)。隣のTのオヤジの言うことが、いちいちムカムカくる。まだ、私の人間ができていないということで、厳に反省すべきなのだろう。それにしてもあのヤロー……。
9:05、体重66.35kg。今、Tのジイサンが、イレッサを使っていることが判明。スエヨシのおじさん、今日退院。100日間の抗癌剤投与。ヨカッタネ。

 「自省録」(岩波文庫)第五章二七。 
岩波のなかに見つける誤植かな

10:00過ぎ、白血球の注射。次いで検温等。血圧132−80、体温36.9度、血中酸素濃度99(!)。

19:00、H様の御検温、37.0度。
20:00、ティッシュが切れる。買うとまで言ったのはこちらの切実さのせい。しばらく病室で待っておれと。言われたとおりに待っていると(シビレが切れた頃)、Hが使いかけを持ってきて明日返してくれと。この一夜の過ぎ去ること速やかならんことを。
病人にとってティッシュというものが切れるということがどういうイミを持つものであるか、まともなナースなら想像力を働かせてほしい。トイレからしかたなく奪取してきたロールペーパーを見せて「これでもよかったんですがね」と言った「皮肉」は文化の存在するところでだけ通用するものであることを忘れていた。あいつはダメ。プロとしてだけでなく、ごくふつうのpersonとしても。
廊下を当直医が走り回り、この夜に外来者の姿が数人見える。どうやら西の端の病室で誰かが逝ったようだ。どうりで――。Hさん失礼しました。でもね、あなたは「こんなとき、全くいつでも天使の笑顔ではいられないわよ」という、典型的な形相と対応ではありましたよ。


1月25日(土)晴れ
5:00過ぎ起床。デイルームで7:00ごろまで仕事。あとは2〜3の検索事項だけ。デイルームに6:00ごろから、昨夜亡くなった人の遺族らしい2〜3人、待機している。そこから察するに亡くなったのは、長患いの老人らしい。出棺の相談など、している。
痛み、けさはなぜだかきわめて調子いい。9:00、コンチン服用前、ほとんど0。ダルさも微弱。
木津直人詩集「単位」、きのうからこれで通算3べん読み返す。ことばを失うほど、凄い詩集である。

(1晩だけの外泊へ)


1月26日(日)終日曇りのち降りだす
20:30、帰院。
血中酸素濃度96、体温37.6度、血圧128−80。


1月27日(月)雨
6:30頃、採血。2本。体を「次に」動かすさいに物理的な痛みはあるが、今までと違う質を感じる。8:30現在、すなわち鎮痛薬使用直前、痛み安静時1弱、移動時2強。いまの一瞬を截り取るなら、薬など用いなくてもいいくらいである。ただし、帰宅中はなぜだかイタかった。
日勤H。10:30、血圧148−88(=高めなのは=しゃべりながら、ということもある)、体温37.1度、血中酸素濃度97。白血球はなんと12000。11:00前、5号棟B2にてX線。11:30、コバルト終了。メシのあと猛烈な眠気。1時間ほど、ベッドの中で極楽の雲間をさまよう。13:00、覚醒。この覚醒は脚のダルさにもよる。ただし痛みは皆無。
午後、K社まで行き、納品。と同時に仕事もらってくる。大ヴォリューム。冬の雨。
午後5時帰院。すなわち由利帰らす。

極論をいえば、時間を何かのために「使う」のは勿体ない。時間はそれ自身として感じられたままに、何もののためにでもなく、過ぎてゆくべきだ。もっともこういう極論は痛みの「無さ」によってもたらされたもので、痛みが「存在」するときには、このまったく正反対のことがいえる。痛みのさなかでは「過ぎないこと」が時間の本質であり、悪い奇跡のようにこの世で実現している小さな彼岸にほかならない。


1月28日(火)晴れ
5:30起床。6:30頃までデイルームで仕事。突き合わせはやはり大変。1折ほどしか進まない。1日3〜4折こなせればよいのだが。メシのあと10:00頃までずっとウトウト。
10:00、血圧138−86、体温37.2度、血中酸素濃度99。
15:45、梁先生来。よっぽどのことがない限り、31日(金)退院でアルト。18:15、脱糞。いつものように、苦しみのすえ。
20:00まで、仕事。3折まで終わらす。手始めとして、まずは捗ったのではないか。


1月29日(水)晴れ
6:00少し前起床。熟睡。朝7:00まで、1折ほど。
8:00過ぎ〜9:00前まで、「自省録」の一章を読む。こんなに静かで沁み込むような読書の時間は何年(何十年)ぶりだろう。
9:10、ふと思いついて。体重66.35〜66.40kg。
9:15、イマムラ氏と(彼の担当ナースの)カヤノの会話を聞く。最近、見直したぞ、カヤノ。
10:00過ぎ、血圧126−78、体温36.8度、血中酸素濃度97。
仕事、原稿照合は1折につき、やはり1.5hほどかかる。現在5折スミ。あと、9折。(12:00現在)


1月30日(木)晴れ
3:00、覚醒、ボルタレン使用。5:00過ぎ起床、仕事2折。(これで)8折スミ。ワーク中採血。CEA、ヨロシクね。
10:00〜11:00近く。マルクス=アウレリウス、第七章まで。
15:10、血中酸素濃度97、体温36.8度、血圧126−82。
19:30、便通。
明日退院。最後の一夜。感慨ナシ。
夕方、落合氏と少し談。菊狂い、だそう。
20:40、痛み殆ど0。かすかにダルさ。ここ1週間ほどで、瞠目すべき薬効。痛みは存在を蝕む。


1月31日(金)晴れ
5:20頃覚醒、痛み3強、すなわちボルタレン。後、起床してデイルームで仕事、1折ちょっと。時折(いつも?)見かける貫禄ナースと少々談。痛みのこと。整形外科でのことをちょっと話したら、あそこは不勉強であると、貫禄ナース。
10:15、血圧116−82、体温36.8度、血中酸素濃度97。

(午前中、退院。家へ)


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