元禄三年(一六九〇)正月十九日、湖南で越年した芭蕉は病気治療のため伊賀に帰郷し、そこから大津の伝馬役河合(川合)佐右衛門夫人の智月に宛てて書状を送っている。女房様といわれる書体である。
六兵(ろくべ)へ(衞)とめ申(まうし)候。さまざま御しかりなさるまじく候。われらぢびやう(持病)もこの五三日心もちよく候まゝ、はるのうちやうぜう(じやう)いたし、おにのやうになり候て、しきものゝふとんもいらざるやうになり候て、御めにかけ可申(まうすべく)候。かごのうちにて、こしもかたもいたみ候而(て)、やうやういがへ入申(いりまうし)候。
水な(菜)は方々へわけて送り、さけはでししゆ(弟子衆)にふるまひ候。
いつもいつもよめご御ほねお(を)らせ、まことにいたいた敷(しく)、忝(かたじけなく)ぞんじまゐらせ候(そろ)。よくよく御心得なされ可被下(くださるべく)候。
正月十九日 はせを
智月さま
智月は湖南蕉門の有力メンバーであった乙州(おとくに)の姉で、夫とのあいだに子がなかったためか、彼をその養嗣子とする。貞享三年夫と死別したのを機に剃髪、智月尼を名乗る。生没年不詳だが芭蕉よりは十歳ほど年長で、宝永五(一七〇八)年以降に没したことは確実であるから享年は七十ほどか。最初尚白門。芭蕉との交渉を示す最初の資料は次の芭蕉の句と詞書である。
大津にて智月といふ老尼のすみかを尋(たづね)て、をのが音(ね)の少将とかや、老の後此あたりちかくかくれ侍(はべり)しといふをおもひ出て
少将のあまの咄(はなし)や志賀の雪
これは元禄二年冬、芭蕉が乙州の留守宅を訪れたさいのものであり、これを立句とする歌仙一巻が智月の真蹟により残されているという。「をのが音の少将」とは、鎌倉時代中期の人で藤原信実の女(むすめ)。後堀河天皇の中宮藻壁門院に仕え、中宮少将・藻壁門院少将と呼ばれた。芭蕉の一句はその後世に名高い歌「をのが音につらき別れはありとだに思ひも知らで鳥や鳴くらむ」を踏まえ、湖畔に老いを養う智月その人をことばでやわらかく光被している。彼女が若いころ宮仕えして歌治(歌路)といっていたということもあるいは芭蕉の念頭にはあったか。雪が暖かく感じられる句というのはありそうでなかなかない。私にとって現実にはない記憶を呼び覚ますような、懐かしい一句である。
ところで書簡のなかの「われらぢびやう」とはなんであったのか。元禄三年七月十七日付牧童宛書簡、同二十三日付智月宛書簡などに徴してみるとどうやらそれは疝気や痔疾であったらしいことがわかる。帰郷するにあたって駕籠を使い、「さけはでししゆに」ふるまうしかなかったのである。また、「はるのうちやうぜういたし、おにのやうになり候て、しきものゝふとんもいらざるやうになり候て、御めにかけ可申候」とあるが、三月の中旬から下旬にかけて芭蕉は再び膳所へとおもむいている。この元禄三年という年は、湖南との交渉が芭蕉の生涯のなかでももっとも頻繁であった年といえる。よほど芭蕉を惹き付ける何かがこの地にあったと考えられるが、そのひとつとして智月をはじめとする湖南の人々への親愛が挙げられると思う。有名なものではあるが、次に引く句にそのことは象徴的に表れている。
望湖水惜春
行(ゆく)春を近江の人とお(を)しみける
この句を尚白が難じて、行春は行歳にも、また近江は丹波にも置き換えられるつまらぬ句であるといったと「去来抄」にある。それに対して去来は「尚白が難あたらず。湖水朦朧として春をお(を)しむに便有(たよりある)べし。殊に今日の上に侍(はべ)るト申(まうす)」と師を弁護し、芭蕉はそれにつけくわえてひと言、「しかり、古人も此國に春を愛する事、おさおさ(原典ママ)都におとらざる物を」といったとある。
「近江」という語感のなかには、湖の朧々たる眺望のうららかさだけではない、何か歴史や時間の悲しみのようなものがこめられている気がする。一句はそれを陽春のうちに幻視する。「近江の人」とはそうした数限りない古人の俤を濃(こま)やかに帯びた幻想の隣人でもあった。「志賀辛崎に舟をうかべて」芭蕉が惜しんでいたのは「春」ばかりではなかったような気がする。
この年が湖南との交渉がもっとも頻繁であったといったが、それは芭蕉が一年の大半を幻住庵や木曽塚で過ごしたためである。当然句も(「行春」の句とともに)湖南にちなんだ佳什が多い。以下挙げてみる。
膳所へゆく人に
獺(カハウソ)の祭見て来よ瀬田のおく
洒落堂記(文略)
四方より花吹入(ふきいれ)てにほの波
勢田に泊(とま)りて、暁、石山寺に詣(まうづ)。かの源氏の間を見て
曙はまだむらさきにほとゝぎす
「勢田の螢見二句」のうち
ほたる見や船頭酔(ゑう)ておぼつかな
堅田にて
病雁の夜さむに落(おち)て旅ね哉
比良みかみ雪指(さ)シわたせ鷺の橋
乙州が新宅にて
人に家をかはせて我は年忘(としわすれ)
こう並べてみると、湖のうちに閉ざされているというか、湖にむかって開かれているというか、独特な「近江」という土地がはらんでいる風光が匂い立ってくるようだ。
ここで句の註を二、三入れておきたい。まず最初の「獺の祭」であるが、「獺祭 (だっさい)」という成語があり、カワウソが取った魚を食べる前に並べておく習性が魚を祭るように見えることから、転じて詩文をつくるさいに書物を投げ散らかしておくさまをいう。正岡子規が獺祭書屋と名乗ったことは有名である。この句の場合は膳所蕉門の精進ぶりを見てこよ、という意味で使われているのだと思われる。
次に「にほの波」(「卯辰集」の句形では「鳰(にほ)の海」)だが、「鳰の海」は琵琶湖の別称。現在木曽塚のある義仲寺の前の地名は「鳰の浜」となっているが、新しくつけられたものであろう。
さらに「曙は」の句の詞書にある「源氏の間」は、ご存じのかたも多いと思うが、紫式部が石山寺に参籠して源氏物語を書いたという伝承を踏まえている。「むらさき」の一語はその縁である。
「ほたる見」の句についていえば、「おぼつかな」いのはもちろん船頭が酔っているせいであるが、それだけにはとどまらない。「おぼつかな」さは蛍というかすかな光にもとどき、また「ほたる見」という行為にもとどいて、幽暗な夏の情感をたちのぼらせている。「猿蓑」における芭蕉の一極致といえるだろう。
著名な「病雁」の句は当然近江八景のうちの堅田落雁をかすめたものであることは間違いない。ただ、元禄三年九月二十六日付の茶屋与次兵衛(昌房)宛書簡のなかでこの句に触れ、「拙者散々風引(ひき)候而、蜑(あま)のとま屋に旅寝を侘(わび)て、風流さまざまの事共(どもに)候」とあるように「夜さむに落」ちたのは自分だという見定めの、これは自らのポートレイトであったといえる。
「比良みかみ」の句は、どうも平地から見た嘱目ではなさそうだ。句の角度がひとつの鳥瞰図になっているようなのである。またこれは大伴家持の「かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞふけにける」を俤にした句でもある。このバーズ・アイの働く場所を湖南にもとめるとしたら、幻住庵記の次の一節に解はあるのではないか。「山は未申(ひつじさる)にそばだち、人家よきほどに隔り、南薫(なんくん)峯よりおろし、北風(ほくふう)海を浸して涼し。日枝(ひえ)の山、比良の高根より、辛崎の松は霞こめて……」とあるような、幻住庵でこの句はものされたと考えたい気が、なんとなくする。
最後の「年忘」の句は、何か深刻な事情があって大津に帰らなかった乙州が、芭蕉の慫慂を容れ帰津して一件が落着したときに詠まれたもの。塵中をつきぬけたところで俳諧師が見せるはれやかな顔である。
ところで、芭蕉宛智月書簡が一通だけ残っているので次に引用したい。ちょうどこの元禄三・四年と推定されるころのものである。
よきやうに御なお(ほ)し被下候(くだされそろべく)候。又あとより申上(まうしあげ)参らせ候。めでたくかしく。
なんど(納戸)ゑ(へ)も月はさしこむねごしらへ
とぼとぼとむかへば月にごくはう(後光)かな
一、せんだくの御きりもの(着物)御ざ候はゞ、御こし被成(なされ)候べく候。
八月十三日 ち月
はせを樣
しきりに芭蕉の添削を受けていたこと、また芭蕉の着物の洗濯など、身の回りの世話を焼いていたことなどがうかがわれる。彼女の入集句は「猿蓑」に四、「炭俵」に五、「續猿蓑」に四などである。それぞれの集から一句ずつ引いてみる。
孫を愛して
麥藁の家してやらん雨蛙(猿蓑)
なしよせて鴬一羽としのくれ(炭俵)
鴬に手もと休めむながしもと(續猿蓑)
総じて清新な女性らしい視線が光っている作風だと思う。いっぽうで、商用で留守がちな乙州に代わり、家をきりもりして来遊する諸俳人をこころよく迎えた練達の主婦(そういうことばがあるならば)の手際も感じさせるようだ(なお「なしよせて」とは借金を返しすませてという意)。元禄七年(一六九四)冬、大坂で没した芭蕉の遺骸を義仲寺の木曽塚のそばに葬るにさいし「浄衣その外(ほか)、智月と乙州が妻、ぬひたてゝ着せまゐら」せたという。「人に家をかはせ」た芭蕉は最後まで、「近江の人」に身の回りの世話を焼かせたことになる。
(この項終わり)
付記 三月の彼岸の日、筆者は大津に行ってきた。前回書いた「木曽殿と」の句の作者が誰であるか、どうしても気にかかったためである。義仲寺で徴した結果、又玄(ゆうげん)という人がその作者で、正しい句形は「木曽殿と背中合の寒さ哉」であることが判明した。又玄は島崎氏。はじめ御巫(みかんなぎ)味右衛門清集、のち改め御巫権太夫。伊勢神宮の神職であった。寛保二年(一七四二)没。享年七十二。芭蕉への入門は貞享五年(一六八八)ころか。「木曽殿」の句は土地では有名なものとして通っているとか。あやうく赤い恥をかくところであった。そのほか、保田與重郎の墓があるのにはちょっとびっくりした。
*参考文献/芭蕉関係のテキストは岩波文庫を用いた。以後いちいちこれを記さない。中公文庫『歌を恋うる歌』(岡野弘彦著)。
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