塵中風雅 (九)
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塵中風雅 (九)



 元禄二年十二月、「ほそ道」の旅を終えた芭蕉はそのまま江戸には帰らず、近江の膳所(ぜぜ)から京の去来に宛てて書簡を送っている。この間、伊勢山田などにも長逗留しているが、翌年になるまで郷里の伊賀上野にも帰っていない。以下、書簡から引いてみる。

(前略)一、江戸より五つ物到来珍重、ゆづり葉感心に存(ぞんじ)候。乍去(さりながら)当年は此もの方のみおそろしく存候處(ところ)、しゐ(ひ)て肝はつぶし不申(まうさず)候へ共(ども)、其躰新敷(そのていあたらしく)候。前書之事不同心にて候。彼義(儀)は只今天地俳諧にして萬代不易(ばんだいふえき)に候。大言(たいげん)おとなしくても、おとなしき樣なくては、風雅精神とは被申(まうされ)まじく候。却而云分(かへつていひぶん)ちい(ひ)さき樣に存候。ゆづり葉を口にふくむといふ萬歳(まんざい)の言葉、犬打(うつ)童子も知りたる事なれば、只此まゝにて指出(さしいだ)したる、閑素にして面白覚(おもしろくおぼえ)候。其上(そのうへ)文字の前書、今は凡士之 (ぼんしの)手に落(おち)、前書に而(て)人を驚かすべきやうに而、正道にあらざるやうに候。されどもキ樣御了簡、其角心□をも御汲被成(くみなされ) 候而、ともかくも可被成(なさるべく)候。
愚老木曽塚之坊、越年(をつねん)之事、達而(たつて)ねがひに候間、大晦日より、あれへ移り、湖水元旦之眺望可致(いたすべく)と存候。野水(やすい)が朝ほどには有まじき哉(や)と存候。
尚(なほ)々愚句元旦之詠、なるほどかろく可致候。よくよく存候に、ことごと敷工(しきたく)み之(の)所に而無御座(ござなく)候。却而世俗に落候半(おちさうらはん)。加生(かせい)、キ樣、隨分ことごと敷(しき)がよろしく候。
   □月二十□日                    はせを
 去来(きよらい)樣

 いわゆる「萬代不易」について触れた最初の資料といえるが、ここに出てくる去来と加生(凡兆=ぼんちよう=)の簡単な閲歴を書いておきたい。
 去来。向井氏。幼名は慶千代。通称、喜平次・平次(二)郎。諱(いみな)は兼時。字、元淵。号は義焉子。庵号、落柿舎。慶安四年(一六五一)に肥前長崎に生まれ、宝永元年(一七〇四)、洛東岡崎村の自宅で没。享年五十四。いわゆる蕉門十哲の一。二十一、二歳のころ、筑前黒田侯に仕官を望まれたがこれを固辞。以来、その天文暦数の造詣の深さでもって摂家や堂上家に出入りはしたものの、自ら主を戴かぬ「三十年来の大隠士」、洛中の浪人として生涯を過ごした。芭蕉との交渉は貞享初年あたりからはじまり、元禄四年には凡兆と共編でいわば蕉風の代表作ともいえる「猿蓑」を世に問うにいたる。その人となりは重厚篤実、芭蕉をして「西三十三ケ国の俳諧奉行」といわしめた。芭蕉没後の元禄八年、彼と同じく京師に住む浪化を後援して「有磯海(ありそうみ)」「刀奈美山 (となみやま)」を出し、また去来の生前に刊行こそされなかったものの、その「旅寝論」と「去来抄」は蕉風の要諦をうかがわせるものとしてあまりにも重要である。
 凡兆。野沢氏、宮城氏、越野氏、宮部氏など諸説あるが確証はない。名は允昌。俳号は元禄三年初めごろまで加生。当書簡では加生で通用している。生年不祥。正徳四年(一七一四)春没。かなりの齢であったと推定される。加賀金沢の人。京へ出て医を業とする。芭蕉への入門は元禄元年ごろか。元禄初年のころ妻とめ(法名羽紅)とともに芭蕉に親炙し、さかんに交遊している。元禄四年には去来とともに「猿蓑」を編み、その入集句数四十四は集中随一である。このころを頂点としてのち師に離反、元禄四年罪を得て(何の罪かは不明)下獄、同十一年許されて出獄したが、晩年は落魄した。芭蕉の斧正を受けた「下京や雪つむ上の夜の雨」(猿蓑)は代表作といってよい。
 さて、書簡のなかで批判されている其角の作であるがその全句形は次のようなものである(「勧進牒」に収める)。

 手握蘭口含鶏舌
ゆづり葉や口に含みて筆始

 これは漢の尚書郎が口に鶏舌香を含み、蘭を握って朝廷に出仕した故事を、門付け芸人の万歳祝言の「ゆづり葉を口に含み、松を手に持ちて」という決まり文句にひっかけて、その俳諧化を図った句という。ゆづり葉はトウダイグサ科の常緑高木。新しい葉が生長してから古い葉が譲って落ちるのでこの名があるという。新年の飾り物に用いる。
 芭蕉はこの句それ自体は評価している。「ゆづり葉感心に存候」といっているわけである。ただこの作は後世の私たちから見ても、前書と句とのあいだに内的な必然性が感じられない。手に持つもの、口に含むものの表面的な符合があるだけである。それによって故事が俳諧化されるわけでもないし、句が故事によって光被されるわけでもないのだ。まことに「大言おとなしくても、おとなしき樣なくては、風雅精神とは被申まじく候。却而云分ちいさき樣に存候」といわなくてはならない。ただそのはなやかさ、鬼面人を驚かすといったところに、いかにも其角らしさがあらわれているという点がおもしろい。「前書に而人を驚かすべきやうに而、正道にあらざるやうに候」という言葉は、この古い高弟の、あいかわらずのやつだとでもいいたげな、芭蕉のにがりきった表情が浮かんでくるようで、私などにはなかなかに愉しい図に思えるのである。そしてこのことは「乍去当年は此もの方のみおそろしく存候處、しゐて肝はつぶし不申候へ共、其躰新敷候。前書之事不同心にて候。彼義は只今天地俳諧にして萬代不易に候」といういいかたにもあらわれていると思う。ここで注意していいのは「其躰新敷候」という言葉が其角の句を貶めているものではないということだ。むしろ反対に積極的に評価しているもののように私には感じられるのである。
 これに関連して「彼義は只今天地俳諧にして萬代不易」という発言に少しだけ触れてみたい。ひとことでいうなら、「不易」と「流行」(只今天地俳諧)は対立概念ではないということだ。いいかえれば「新敷」躰と「萬代不易」とは相反しない。むしろ「只今天地」がそのまま「不易」の根底にかかわることが、「ほそ道」の旅を終えた芭蕉の頓悟であり、俳諧におけるその断言肯定であったといえる。「不易流行」に関しての論考はまさに汗牛充棟ともいえるので、この問題についてはこれ以上あえて触れることをしない。
 ところで、書簡の最後のほうで「愚老木曽塚之坊、越年之事、達而ねがひに候間、大晦日より、あれへ移り、湖水元旦之眺望可致と存候。野水が朝ほどには有まじき哉と存候」と述べている部分であるが、これはどういうことなのであろうか。
 木曽塚は、元暦元年(一一八四)、源範頼・義経軍に宇治川でやぶれ、近江粟津原で討ち死にした木曽義仲の墓で、現在は大津市馬場の義仲寺境内にある。同寺は寺伝によれば、天文二十二年(一五五三)、佐々木義実によって創建され、当時は石山寺の末寺であったが、寛政年中に三井寺の末寺となった。芭蕉は元禄初年ごろからしばしばここを訪れ、門人たちによって庵も建てられた(無名庵という)。芭蕉没後、遺骸はここに葬られた。十数年前に筆者もここを訪れたことがある。狭い境内に、木曽塚と隣り合って芭蕉の小さな墓が立っており、近くの句碑に「木曽殿と背中合せの夜寒哉」という句が彫られていたのを記憶している。むろんいまとなっては誰の作なのか知るすべもない。
 義仲に関しては、元禄二年の「ほそ道」曳杖中に、「義仲の寝覺の山か月悲し」の句があるのをはじめとして、木曽についても、「思ひ出す木曽や四月の櫻狩」(貞享二年)、「おくられつおくりつはては木曽の秋」(貞享五年)、「木曽のとち浮世の人のみやげ哉」(同)、「木曽の痩もまだなを(ほ)らぬに後の月」(同)、「木曽の情雪や生(はえ)ぬく春の草」(推定元禄四年)、「椎の花の心にも似よ木曽の旅」(元禄六年)、「うき人の旅にも習へ木曽の蝿」(同)などがある。また義仲関連の句としては、謡曲「實盛」の、義仲首実検における樋口の次郎の言葉、「あなむざんやな是は齋藤別當にて候ひけるぞ」から俤を奪った「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」(元禄二年)が挙げられる。
 芭蕉は非業の死を遂げた逆臣・木曽義仲に生涯深い関心を持ちつづけた。というより義仲が「好きであった」。そしてその出自の地・木曽は、芭蕉にとって特別な意味合いを持つ土地であったといえるのではないか。「木曽の句」が貞享五年に多いのは「更科紀行」によるものであるから当然だといえば当然であるが、むしろ芭蕉がなぜ「笈の小文」の旅につづく曳杖の地として木曽を通るルートをえらんだのか、ということが問題であろう。
 結論から先にいってしまえば、私にはどうも芭蕉にとって木曽という土地は一種の異界のようなものであったという気がしてならない。「おくられつおくりつはては」といい、「浮世の人のみやげ」(更科紀行真蹟草稿には「よにおりし人にとらせん木曽のとち」)といい、「木曽の痩もまだなをらぬ」といい、それはどうやらこの世ならぬ色合いを帯びた「土地」であったようだ。このことは芭蕉の義仲好きの内実がどのようなものであったかを暗示しているような気がする。義仲は救いのない、そしてその救いのないぶんだけ巨大な亡者として芭蕉の眼には映っていたのではないか。その塚が風光明媚な、芭蕉のこよなく愛してやまない湖南の地にあるということは、芭蕉自身の救いでもあったはずだ。このことはかならずしも義仲への芭蕉のコンパッション、という面からいっているわけではない。それは芭蕉の内面にある修羅にとって救いであったという意味である。
 明治書院の「俳諧大辞典」によれば、芭蕉は元禄三年の八月半ばごろに幻住庵からこの地に出たとあるが、実際にはこの書簡が示すとおり元禄二年の年の瀬には義仲寺を訪れているのである。義仲寺での越年は芭蕉のかねてからの望みであり、書簡はその躍るこころを伝えているようだ。しかし末尾の「野水が朝ほどには有まじき哉と存候」とはどういうことなのか。野水が迎える元旦の朝ほどには優雅なものではなさそうだ、という諧謔なのか(ちなみに野水は名古屋の裕福な呉服商)。ここのところがどう読んでも私にはわからない。読者でご存じのかたがあったらご教示ください。
 最後の尚々書についてであるが、かさねて引用してみる。

尚々愚句元旦之詠、なるほどかろく可致候。よくよく存候に、ことごと敷工み之所に而無御座候。却而世俗に落候半。加生、キ樣、隨分ことごと敷がよろしく候。

 「愚句元旦之詠、なるほどかろく可致候」というところが注目される。「元旦之詠」は具体的には、

 元禄三元旦
  みやこちかきあたりにとしをむかへて
こもをきてたれ人ゐ(い)ます花のはる

 というものであるが、後の『炭俵』あたりに代表される「かるみ」とはやや趣を異にするものといえるだろう。しかし芭蕉の資質がいわしめたものとして、まったく無縁とはいえないのではないか。脂の乗り切った円熟期にこうした発言があり、句があるということは私にはたいへん興味深く思われる。「ことごと敷工み之所に而無御座候」というわけであるが、問題は次の箇所の解釈についてである。つまり「却而世俗に落候半」をどうとるかだ。私はこれを芭蕉の謙遜の言葉として受けとる。「世俗」に落ちる可能性があるのは「かろく」詠んだ自分の句だ、という見定めでなければつづく「加生、キ樣、隨分ことごと敷がよろしく候」の解釈が混乱する。芭蕉はいわれのない皮肉をいう人ではない。「ことごと敷」が世俗に落ちるもの、ととればここでは去来や凡兆に強烈ないやみをいっているとしか考えられない。そうではなく、芭蕉がここでやろうとしていることはあくまでも新しい試みであり、それだけに危険にみちたものであることがよく認識されており、そういうことを含めたうえでの謙遜の言葉にほかならないものと考えられるのである。そうした試みについては、後年のようにはまだ門弟たちを誘ってはいない。自分は失敗するかもしれないが、きみたちは蕉風の完成に励んでもらいたい、ということが「加生、キ樣、隨分ことごと敷がよろしく候」の意味するところであろう。これを逆に考えれば、芭蕉はここで門弟たちのあえて一歩先にある地雷原、その危うさをまさぐっているといえる。後年の「かるみ」と無縁ではないというのは、こうしたことを指している。


(この項終わり)

*参考文献/中公文庫『芭蕉』(安東次男著)、岩波文庫『芭蕉俳句集』(中村俊定校注)、日本古典選『謡曲集上』(朝日新聞社刊 野上豐一郎・田中允校注)


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