第二のノート(歩行)
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第二のノート(歩行)



 切断することが重要である。いま、それはわたしがする歩行の純粋さ、のみではなくてわたしの生理、視線、実在非在それらいっさいによって編みあげられたわたしの存在そのものの形態としてみつめられるべきである。切断とはこのばあいわたしの意識をあたかも素手で触れ、とらえうる〈もの〉とみなすことによって可能な、自身の存在そのものの完全ないろわけ−区角の謂いであり、わたしのうちのさまざまな領域の定立……不動なものとすること、逆言するとすれば〈中間項〉を無くしてしまうこと、もしくは多少感情を加味すれば、それを、ころしてしまうことの謂いである。

 截断すること。わたしが眼前に見さだめうる歩行のための当為は、わたしがする歩行の原体である、ひとと交換不能な固有……わたしの〈有機〉そのものからの過剰をつぎつぎにあまさず截断してゆくことである。いな、ひとつひとつの截断がそのままわたしの足どり、わたしの眼で視ることができる足どりのさまを形づくるようにおもわれた。過剰な眼はわたしにとってかならず、外象のいろを込めているものであったから、それを切り落してゆくことはあまたの外象とわたしとの関係性、その相関の線を無くしてしまうことあるいは外象との骨がらみの交流にひとつの〈異層〉をめぐらせること、でありそのようにしてわたしそのもののもっとも原的な骨格がのこされ、あたうかぎり純粋な固有度がはかられるはずだ、と信憑された。わたしに対するわたしの絶対的な場処の確保……それゆえ、過去−現在−未来という時間系は否認され、〈いま〉・〈ここ〉のほかはわたしにとって存在してはならなかった。             

 わたしが受感する多様な〈予感〉……いなむしろ個々の事象を超えて〈総体〉として、また一種の色相としてわたしと相関しつづける〈予感〉−かくしてわたしがする歩行のいっさいの前提としてのそれ……。個々の事象に即した予感はみな、ある〈総体〉つまりわたしの原形質へと回帰してゆく。予感とはかかる意味でわたしの存在そのもの……いまとここ、に関して云えばわたしの、位置づけ定立しないことそれ自体が唯一の表徴である領域と独特な触れあいかたを示している。それは〈可能〉にむけてひらきつくされたわたしの〈全体〉あるいはわたしの〈全身〉である。かかるばあい、予感は全可能性というすがたでしか存せず、喩えそれが一の可能に照射されているにせよ、一の具体物がじっさいにひらかれることはけっしてない。けれどもそれが全可能の意識、感情であるにせよ、この予感がその場処にとどまっているかぎりで〈いま〉、〈ここ〉に存するわたしは〈何等かのかたち〉ですすみうる……このようないま、このようなここに存するわたしが想定、むしろ断定するほかはない唯一のすすみかたである、とおもわれた。

 わたしが〈いま〉・〈ここ〉で把まえているあらゆる言葉はわたしが坐している抽象的な椅子……そのような原理の根拠としての非−定立の座からあみうたれたものであるからどのような直接性も具体性も喚起することはない……つまりそのようなわたしは現実、その有効−無効が問われる層へは上昇あるいは下降しないことを意識的に選択する。たいせつなことはもろもろの言葉がわたしの表皮にもはや痕跡をのこすことなくぬぐい去られてのちわたしが視る自身の真皮のありさまである。〈言葉〉の度合いは有償性と相関させて計ることができない。わたしがする表象作用をもふくませた意味合いでの言葉と、わたしがひそかに狙うわたしの全体の言葉をつなぐ意識線へは幾重もの断面屈折をつけておけ。(いま書いたことがらさえもわたしがする曲折のなかに組み入れること)視ているわたしは有機そのもの視られているわたしは無機そのものといった場処を確保せねばならないとおもわれた。

 かくてわたしはそのようにしてひらかれた予行……なにものへもむかうことをしないあるいはなにものかへむかってする予行の地平をさまざまに遍歴しうると信ぜられた。

 わたしが措かれている世界は、措かれているわたしがそれを視るとき、あらゆる事象は対称可能であり相互にどのように唐突なくみあわせであろうと類推されえかさねあわせうる。これは、世界の全体性といったことがらよりもかかることがらが強迫的なまでに〈可能〉なわたしの、非−定立のもんだいに帰せられるべきであった。わたし自身の〈感受〉によって触れうる対象のいっさい……世界は、ある一定の色系にそめぬかれかつわたしのさまざまな屈折の方位にしたがって色相もさまざまに系列化されて世界を浸潤・構成してしまい、ついにわたしにとって世界とは対象のすべてにみちゆきわたるひとつの色彩のほかいかなる意味も有することはなかった。

 わたしは世界にたいして無数の仮説をはばたかせてゆくことができた。そしておそろしい空のひとみのように拡がる〈可能〉にみつめられてそれだけがわたしに赦された唯一のおこないであった。

 わたしが内蔵する〈可能〉……というより視準をしぼろうとすれば無限に後景にしりぞいてゆく、いわば自−意識の逆望遠鏡の内部にひらけて視える地平としての〈可能〉はそれそのものが実現されることはないけれどまたそのことは知り尽くされてはいるのだけれど、わたしの描いてきた軌跡の曲折、〈なにものか〉のそのときどきにおける実現の度合いその重層−堆積のさま等とある対応をなしかつそれらにある作用を及ぼしていることはあきらかであると言うことができた。わたしの〈可能〉の地平はなにものをも指し示すことがないそのことが、かかる地平の存する前提本質であるのだが〈なにものか〉へむかってなされる実現はわたしの自−意識の逆望遠鏡の内部でそれそのものとして拡がりあるいはせばまる固有の地平のうごきにある仕方で厳格に根づけられて実現されまた実現されない−といったけして眼前にひきよせることのできぬ回路が存在するようにおもわれた。

 とまれ、いま・ここという地点に固着しているわたしからあらゆる方向へ派生してゆく意識の投射がそれ自体極めて意識的になされることのうちには、すなわちかかる派生の主体の軸にはわたしの全体をそのアルファ〜オメガまで非在の地点で固有な自律によって再構成するあるいは、非在の地点にむかってわたしの全体を編みあげてゆく、といった願望……わたしがする仮定の領域ではなくむしろその仮定自体をある不可解な仕方で有機づけている〈感受〉の領域に帰属せしめらるべき願望・欲求が内在し、煮つめられているようにおもわれた。さればこそわたしのいま・ここへの執しかたはつよいのであると信ぜられる。そこには自身をひとつの感受体と限定しきってしまうことの基底としてのいうなれば〈そと〉−つまりは〈時間〉にたいするほとんど過剰ともいえるほどのおそれがぬり込められているようにさえおもわれるのであった。

 けれどもわたしを包囲するあの〈時間〉への不安はたえまなく意識されることでつまりたえまなくわたしを隈どり照射し穿ちつづけることでむしろわたしの内部の全体を構成する〈要素〉という側面からは他のさまざまな重層ともはや判別しえぬまでに固有−有機化されていた。それゆえ、かかる〈不安〉にあっては〈時間〉という相貌はわたし固有のある基底である不安性全般のうちに融化してしまいむしろいまではわたしの歩行の欠くべからざる部分となってしまっていた〈不安性〉をそのときどきの要請に応じて喚起せしめるためのいわば索引として〈時間〉ということばあるいは表象をもちいる−といった不思議な転回がおこなわれていた。この地点にいたってわたしは自身の不安のさまを包囲といったばくぜんとした表現ではなくしてわたしをつよくあきらかに囲繞するものとして限定すべきであるとおもった。不安を囲繞としてかぎることでかかる不安を逆囲繞しかつ意識的に〈不安〉をわたしみずからの機能として内部に有機づけ使役しうるまでにしたいとおもった。このことはいってみれば外部からするわたしへの作用のことごとくを単に〈自然〉の当然さということで了承せずぎゃくにわたしの固有さによってさまざまに変容せしめもってわたしの〈自然〉となす−といったわたしが蔵しもつある体系の要請、というよりもその烈しい欲求によるとうぜんの侵行であるということができる。

 わたしがする受感のうつわのうちで刻々生起と消滅をくりかえしているあまたの、形而上学への予感というすがたであらわれるむしろ論理には徹して収束されてゆきえない〈可能〉の原液に充たされた胚腫のことごとくをわたしの歩行を決定しているあの可能性の領野へあたうかぎりちかづけ触れさせ根づけ……つまりわたしの〈有機〉の血脈をかよわせつつ生かしめてゆかなくてはならないとおもわれた。それらを要すれば〈怪物観念〉化することでありそれらが培養されるべきある独特な色相をもったあらたな意識の層を強制的に形成することである。かくてわたしのいっさいはかかる層に拠らしめられなければならずわたしは〈そと〉との作用の線をみずから断ち切って不能となり〈うち〉に蔵しかつ持続させる堅牢な〈可能〉の囲繞のもとにあって自身のあゆみをすすめてゆくと信じなければならなかった。

 わたしがつづけている受感の対象はむしろ受感するわたしの眼から逆照射された面のみで組成される世界、受感するわたしの視線だけで織りなされた〈外部〉でなければならないはずであった。けっきょく……わたしの受感がさまざまに照らし出すものあるいは受感というしかたでわたしを襲うものはまさしくわたしの全体がよびおこすわたしそのものであらねばならないはずであった。それゆえ私の〈不安〉−感受のわたしにおける全体化をはばむ〈不安〉の綾目はわたしからは由来しないものがわたしにする見知ることのなしえないある〈外部〉の作用の相にほかならないとおもわれた。
(いい換えればそれは、わたしの全体からはけっしてはたらきかけえない、いわば偶然性の分泌物として解される。わたしの感受がすなわちそのままわたしの全体となるときつまりはわたしの〈自律〉がまっとうされるときわたしはまるで偶然そのものと化したわたし自身を視ることだろう)
 あるいはぎゃくに〈不安〉はわたしがする歩行によってわたしのうちに有機−固有化された場処からの過剰や欠如の意識として受感されたもの−と把えられた。かかるときわたしは〈不安〉を〈不安〉のままわたしの歩行のいわば水準器として使用するのみである。
 
――体験はわたしが坐している〈いま〉・〈ここ〉からする逆行のうちに把まえるかぎりで体験なのであってそのときその場で体験として受感されることはありえない――このことはわたしのうちに組成されるもののある〈時間性〉に起因することがらのようにおもわれた。〈いま〉・〈ここ〉にあってわたしは刻々体験しつつあるのだけれどもしかしわたしの眼に映ずるものは単に現象でしかなく体験そのものはそのときその場からたえまなく滑りゆきながらかつ自−意識を超えたしかたでわたしの意識性にあたえられかつ受感されるのであった。いい換えれば〈いま〉・〈ここ〉の現象は意識的であることがもはやなにものでもなくなるような圏−わたしの全体、わたしの有機へとつねに投射されることで体験の像をむすんでゆきある〈時間〉の意識として定着されるけれどそれはわたしの意識性に依って見知られることのないわたしのそのもの――つまり絶対に〈いま〉・〈ここ〉というすがたでしか存しえないわたしの有機自身に依って決せられることがらであるとおもわれた。

 わたしがする歩行のうちにあって〈わたしが書く〉ということは書かれたものに焦点がさだめられるのではなかった。わたし……つまりはわたしのほかのいかなるものへも還元されえぬひとつの有機が書く−そのことがたいせつなのであって書かれたものはむしろそれそのものだけでわたしの全体であるべき歩行を触発するばね−わたしの全体の相における不安ないしは可能の意識的な使役の〈顕われ〉そのものとしてかぎられるものであるべきであった。それゆえ……〈まえ〉へ投げつけられうる表象を可能ならしめる背後の判断の体系へはけっしてゆきえずかつそれになにものもつけくわえることをしないような地点でそれは書かれていた、いなむしろおこなわれていた。

 わたしの眼がそれにむかってみひらかれている−ということはわたしが自身のおそらくは思考から生理までをもふくませたいみあいでの〈全体〉をそれにむかわしめているまったき自律、すべてわたしみずからがする意識に依ってくまなく充たされた全体、操作する無限……であるところの非人称のなにものか−それがわたしの有機にとり込まれるときのその勢力となるものはかつてわたしの現実であったものがほろぼされてゆくその感覚自体でありさらにそのように感覚するわたしをこばみきってゆくときの、またもや感覚である……とおもわれた。このようなすがたで歩みゆくわたしはしかし実は無限の後退をなしゆくものであるのだけれどこのことはわたしがみずからをむかわしめている〈それ〉がそれ自体としては全可能がそのままで全不可能と同義であるような〈なにものか〉であるのだろうか? ぎゃくにはたして〈それ〉そのものになったわたしの眼にわたしの外象はどのように映ずるのであるのだろう?
 わたしに世界の内部におけるひとつの位置をあたえるとすればこのようにわたしは存し、そうしてわたしはわたしの位置を自身にけっして知らしめぬことですなわち〈時間〉をみとめないことでわたしの歩みを保持していた。

 そしてわたしはかつてわたしのものであったもろもろの外象−全現実とともにわたしがする歩行の触媒であった〈危機〉の意識とも訣れなければならなかった。〈いま〉は危機の意識をわたしの過剰さがある不可能性にむかってむすぶ像とみなしわたしがする歩行の圏内ではそれは、かならずころされなければならないものとした。なぜならわたしにとって定着されてしまった危機の像にはかならずあの〈外象〉へのある有償的な〈判断〉の匂いがすると感ぜられたから。
(かくてこの〈ノート〉には危機が書き込まれることはない、危機が現ずるのはわたしにとって実在の領においてよりほかにはなくわたし自身の実在はそれを抹殺してしまうこの〈ノート〉そのものである以上わたしの実在には危機ということばはない――とわたしはこの〈ノート〉に書くことができた。)

 ――書くおりに認知される苦痛はわたしの固有な全体の喪失の感覚としてふまえられた――しかしたとえばそれがわたしの〈有機〉そのものの在り方のさだめであるにしても−獲得あるいは見定めることのなしえないものであるとしてもそうであるならば私は痕跡のみを残すだろう。獲得されたものの連鎖である痕跡ではなくむしろ獲得されなかったものの連鎖が獲得されえぬものを指示し描写し暗喩しつづける痕跡として。このようなとき、書くひとであるわたしが生きて自身の血をめぐらしうる圏は外気とまじわらぬ了承されることのない〈いま〉・〈ここ〉でありたとえばこの部屋でなくてはならなかった。

 わたしがするすべての活動をわたしの〈有機〉のあとづけがたい曲線に沿ってする……あるいはわたしがする思考−それをつらぬく原線をあの〈生理〉と名づけられる極度に固有な領域にまでたかめまたはしずめるということにむかってわたしの総称はひらかれていた。意識と有機をつなぐものはわたしにあっては全体に拡張された〈いま〉つまりはわたしの内象をふりわける〈与件〉としての時間性の消去ということになるはずであった。そのように質づけられた圏のうちでもはやわたしは仮定された実在のうえでさまざまに見つけたものを確保……時間のいろに没せしめて所有することはない−わたしがかかえる外象にむけられたあの〈倫理〉の腫瘍は切られる−〈切断〉はそのように意識されることなく−書は自在に読みきられ読み棄てられた……すべてが消去されたのち自身の、いうなれば〈熱意〉のごときものが残ればそれで良かった。

 けれどもわたしがするみずからのみずからへの派生−還元−循環がとりおこなわれているかぎりわたし……という全体の総称の先端に依ってなされるさまざまな内象の未形のものの現形化−つねにわたしがわたしのうちから呼びだしうる機能あるいは〈もの〉としてわたしがもつさまざまな表象を明瞭に仮定することはけれども仮定されたそれらがじっさいにわたしの領において血脈をかよわせること……わたしという全体の任意のかたむきに厳密にしたがってうごき−はたらくことはないとかんじられた。なぜならうごき−はたらくことはわたしのうちには存しない外象のものとのまじわりのほかではなく、わたしのわたしとのまじわり−循環ではないのであったから。わたしの先端がするわたしの全体への指令――は全体のうごきにとってはひとつの単なる契機の域をでるものではないはずであるからつまりわたしがするさまざまな仮定はそれ自体では外延をもたないさまざまな契機のやくわりをはたすものであるとおもわれた。わたしにあってはむしろ仮定されたものの活動をめざすのではなくて仮定することに〈うごき〉があるとおもわれたしまたそのような〈うごき〉のうちでかつてわたしの先端に依って仮定されたものはわたしがする〈仮定〉いがいの指令とはいっさいかかわることなくそれぞれに固有の座を占め−かつそのようにうごき−はたらくと信ぜられた。わたしは依然としてわたしの〈可能〉の諸表象をつむぎつづけなければならなかった。

 わたしが領しているこの圏にあって、〈選択〉とはわたしみずからがするのではなくてむしろわたしに〈与えられる〉というしかたでその質がみとめられるものであった……わたしにとって全現実はとりもなおさずあるネガティヴ−その象として内部に照射されていた。自身をとじることが予感であり希求でありそれからたぶん救済であるわたしという全体……所有として蓄積としてめざされる充たすべき内容が存しない領野であるわたしはいろあいをふくまないたんなる自身をついには定型にはいたらないであろう可塑−可逆のものとして限定し去っていた。ここにいたって〈仮定〉とはわたしの全体が外象にさらされることでみずからを剥離させぬようにわたしの部分をむしろ意識的に外象と接せしめるべき作用の〈面〉にほかならなかった。それがわたしの全体に喚びおこすものはつねに摩擦の感覚いがいのものではなかったといえる。

 〈風景から部屋へ〉
 〈部屋から風景へ〉
 わたしはみずからが視た風景をあたかもはじめからそのように在ったかのごとくわたしというひとつの磁場にひきつけてごういんにわたしの内象のものへと帰属させる−みずからの視野を無限に固有化してゆくかたむきによって……わたしはみずからの領海にさまざまな象をふかくしずめつづけて止もうとはしない、それゆえわたしからわたしでないもののほうへ離脱したとしてそれで死んでしまわぬようなものがわたしの手からうみだされることはないはずであった。わたしにとってみずからの蔵しもつ表象がそれだけで通用することはわたし自身の恥辱であるべきであった。けれどもわたしがかたくなに守りつづけている圏がわたしの封じられた領海からはもっとも遠い地よりやってくるものに依って直撃され破られるであろう刻限をわたしはかんじなくてはならない……あきらかにわたしがみとめまいとしている時刻の狭間に熟しつつある果実の象をわたしは痛みにかがやくひとつの腫のごときものとして受感しなければならなかった。

 わたしはわたしが刻々くみあげてゆく内象の任意にえらばれた一点がそのまま〈世界〉へとつながれてゆくようなしかたで無限に拡大・拡充されうるという可鍛性に充たされることをおもった……かかる内象の可鍛性は無限に重層してゆく外部すなわちわたしではないもののいっさいの「質」を繰り込みゆくわたしが封じてきたわたしの眼の由来にひそむものであることをおもった……おそらくすべて極限的なものがそうであるようにほんとうはわたしはなにものでもない。わたしがなにものかでありうるのはただ世界の有意味性にのみ拠っている……わたしにとってそれがわいざつなものであるのならわたしはかかるわいざつさをこそ愛しなければならない遠い来歴をかんじていた。


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