第一のノート(歩行への限定)
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第一のノート(歩行への限定)



 部屋から風景へ。
 風景から部屋へ。
このふたつは可逆である。わたしはあらゆる室内にわたしの歩行の足跡をしるしてきたしまたあらゆる風景はただひとつのうごかぬそしてまるで生きもののようにそれじたいで思考するくらい空間に還元された。

 幾つかの識知からの報告……。
現象を汲みあげるおりに生じる二者分極の作用。あるいはまた分極された二者の総合統一の不可能性。これらにはつねにわたしの一挙一動にまつわる極度に固有な、したがって伝達不可能な感覚、ことばとわたしを隔てるあたかも夢魔のような実在感、つまりわたしの在りかた、わたしのそのものにとって端初的な、了解の不可能性の介在が存するようにおもわれる。かかる〈夢魔〉はしかしわたしのものでなく人間のものであり全てのひとの所有ではあるが、けして直接の回路に依っては伝達しえぬ、それに依って引かれた描線に血と肉を生々しくさせるところの、なにびとも否むことの赦されぬ感覚である。わたしはこれを〈特殊〉として措く。関係のなかのわたしや関係のそとのわたしや、以下無限につづくただひとりのわたしがするすべてのおこないには、この〈特殊〉の跡が引かれており、それに依ってあらゆる時間、すべての空間からはずれた地点でわたしはたもたれ、かつほろぶ。

 幾つかの識知からの報告……。
ひとはそれぞれに固有な領域を占有する。かれはその領域の囲繞をけして越えることをしない。いな、かれがどのように自身に付された領域の刻印をかんじ、かつそれをいかように見定めようとも、それどころかかかる領域を踏み越した、とかんがえるその瞬間でさえかれは自身の囲繞を〈出よう〉などとは〈かんがえる〉ことさえおよばぬ。(わたしはわたしを仮定することに依ってのみ生きる)。おそらくわたしの非人称は、わたしが斃れたのち、かつてわたしであった領域に、極めてわずかな充填物と、筋ばったいく枝もの隆起のごとき痕跡を視ることができる。

 幾つかの識知からの報告……。
およそ対象は、わたしが把むそれとはまったくことなった本性に依って〈そのように〉存する。〈そのもの〉。わたしがおこないうることは、ただかかる対象が世界の唯中に置かれたときにいずれにせよ、何者かで在らざるをえないところのその作用面、その領域を差し示す、というおこないに限定された。

 幾つかの識知からの報告……。
実在のさなかでのすべての行為、対象、感受は、くわだてられた直接の標的からはずれてゆく、ある錯綜した必然を有している。その作用形式、つまりそれらに介在する曲折や重層そのものだけが指標とされる。かかる指標を視てはならない、視られてはならない。関係の枝の狭間に成熟するあのものをおもおう。そしてわたしはついにあのものに依っておもわれる像にすぎなくなるまでに到る。

 幾つかの識知からの報告……。
わたしが依然として告知を待ちのぞんでいたのは、世界とわたしとのあいだに存するある構造、すなわちわたしがする作用のいっさいの対象であるべき世界と、かかる対象の総和からはけして演繹されないわたしの位置に就いての関係性それ自体であった。わたしと世界の両者はそれぞれに、範疇を交換しつついまだ可逆であり、世界はわたしに還元され、わたしは世界に循環され、このような異差、連繋、かくて飛躍……。けれどもかかる識知はすでにして語られてしまえばいっぽうでは観念論へ、他方では生理学へ相接してゆく排中律である。

 わたしが希っていたのは、整序された定式でもなく、だんじて表現のすべでもない、ただわたしがゆきつくべき限界の相であり、修辞や逆説に依って解かれることのない、ひとつの直截な領域である。

 わたしは現在、幾つかの視点を設ける。視点はおそらくは相互にわたしが直視することのできぬある脈絡に沿って結びあい、ひとつの基底の全体……わたしの身を据えるべき視座をかたちづくる。もろもろの解明がおこなわれるにせよ、おこなわれないにせよ、何ごとか意味あるものがやって来るのはこの後であるだろう。

世界は量の全体である。

しかし世界が世界として、つまりはそれ自体として対象化されるとき、世界は一の質である。

かかる二律背反を矛盾として把えるならば、ここにひとつの内容を認めることができる。
だが、この二律を排中律として視るのならば、世界は無限数の作用とその形式へ解体される。

この立場からは……
 世界が量に還元されるとき世界とは方法であり……
 世界が質に還元されるとき世界とは状態である。

ここにいたって状態と方法とはひとつの主体の裡で合致する。すなわち、その両者は世界の裡の主体がとるひとつの態度にむかって収斂される。

このようにとらえられた世界の中の主体において方法は、状態の水位を決定するばあいにそのもっとも原形的なすがたであらわれるのみである。

かかる主体にとって判断の基準は次の諸点に限定される。
 了解可能性……
事象の意味を理解しうることである。
 了解不可能性……
事象の意味を理解しえないことである。
 了承……
事象の意義を認めることである。
 反了承……
事象の意義を認めないことである。
 非了承……
事象に対する判断の基準を有しないことである。

 ある種の表象をわたしよりも前のほうへ投ずることによってわたしがすすみうる実在の野……。わたしは了解の可能性に染められた、つまりは世界の実在に依って了承された、一定の地帯をゆくことができる。わたしは語ること一般に就いて言っている。ここで、了解の不可能性はむしろ反了承というかたちで枠をあたえられ孤立させられ了解可能性によって埋めつくされる、つまり了承される。かかる機構のうちに、そのなかでひとびとが言葉をむすびあっている現実の貪婪な意志をみとめるのなら、わたしはわたし自身の意志をもつことでわたしの実存している場処よりも前にゆこうとするあらゆる表象を放棄せねばならなかった。わたしはわたし自身より前にはすすみえず、かつすすまないことを選択した。

世界は限定されることで、すなわち部分となることに依って具体化される。すべての実践のうちに核のように蔵したもたれている表象はそれゆえ部分にほかならない。

わたしは世界のあらゆる部分に全体という表象をしかみつけることができなかった。そのようにわたしが有する唯一の表象である全体は、それがまぎれもない全体であらなければならない由来に依って、極度に不能なものであるべきであった。

 わたしはわたしを仮定する。わたしの仮定を明瞭に記すことに依り、仮定されたわたし以外の現実を信じないこと。世界を凍結させること。

フィジカルな事象におけるあつれきに対して意識的であること。意識の象はそれがいかに微細な波紋であるにせよ、これを把えてきわだたせること。

わたしの内部の、意味づけられたり位置をあたえられたりすることのない数多の固定観念やオブセッションをむしろそのままのかたちで確定の方向にむかわしめること。
 
世界に対する固有な斜視……。

(けれどもわたしはいつかわたし以外のものにむかって語りはじめるだろう。かかるときいまさらのようにわたしがただひとりで在ることに驚かされるだろう。)


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