Apr 01, 2012
マルク・コベール『小骨列島』
小骨列島――5つのエピソードでできた小説 マルク・コベール 2000年5月、パリ、ファイヤール社刊目次
第一部 尾形刑事の苦悩
第一章 柔らかな陶土
第二章 人魚の話
第二部 尾形刑事の勝利
第一章 ノゾキとチカン
第二章 低温の愛
第三章 美食家
(裏表紙の紹介文)
『小骨列島』は、日本の刑事尾形が、忠実な部下の大黒に補佐されて行う警察の一連の捜査として、うわべは整った日本の社会を震撼させる渦の真実を記録したものと読むことができる。 窃視症と変態性欲も含まれるこれらの犯罪は、じっさいは失踪、日本語で言えば「蒸発」、つまり市民が自発的に姿を消すという観念と結びついている。 第一部では、尾形刑事は事実への疑念とあり得なさに直面する。乱脈でとっぴな尋問、検証の難しい矛盾した証言、耐え難い現場検証。 第二部は仮説がしだいに確証になり、虚構を見やぶり、真実を発見しはじめる喜びがにじみ出てくる。 尾形刑事は、一見するといかにも反動分子なのだが、捜査を進めるにつれて、ひとりの哲学的美食家を快楽と死の極限まで送っていくほどの変貌を示す。 この、暗黒小説への皮肉な賞賛は日本語と東洋的知識という衣装をまとって、伝統と現代性と退廃の間で引き裂かれる日本を背景に持っている。 マルク・コベールはアンジェ大学文学部教授。日本に6年住んでいた。
第一部 尾形刑事の苦悩
第一章 柔らかな陶土
署長机の後ろでひたいに汗をにじませて、尾形刑事はメンツを失うまいとしている。発作のわななきが身内にのぼって来るのを感じる。汗のつぶがこめかみを流れるのをみると、たいへんな衝撃を受けているのがわかる。頭骸骨はたまごよりつるつるで、屈辱とみなされるものに決着をつけようとするあらゆる試みは空しかった。新聞で報じられた救済策はいずれも彼の眼をのがれず、妹はしょっちゅう家にいて、テレビで見た宣伝を逐一彼に知らせてよこした。先刻飲み下したカプセルのせいで鼻がぐずぐずし、櫛には新しく生えた毛が抜けて絡んだ。ねっとりしたふけがベストの襟くびにたまって、くりかえしそれを手のひらで払う。ときどき首すじを手でマッサージして不快な思いを追い払おうとする。 数ヶ月の間をおいて、二つの失踪事件が起こった。両方とも、関西注1地方に住む三十代の独身の女性である。 死体の発見、鎖に繋がれた骸骨、あるいは海底に括り付けられた死体、検死のために研究所に委託される以前に身元確認できるすべてを洗い落とされてしまった存在、これが尾形刑事を待っていたであろうすべてである。しかし結局のところ、それは最悪の仮説というわけではなかった。 海底に沈められた死体を発見したのは、もぐり漁の漁師で、大きな鮑に手を突こうとした瞬間のことだった。ニュースが列島じゅうを駆け抜ける。いつだって犯人は発見される。だが、彼らに確実に有罪の判決をすることはできない。いつだって被害者は発見できるが、確実に身元を確定することはできない。 たしかに大まかではあるが、尾形刑事の捜査方法はしかしその真価を発揮した。彼は重々しく被疑者の過去を調べるのだ。 ひとりの外国人が取り調べのためにすわっている。ズボンの裾と左足のソックスに乾いた血痕がある。彼はここに来る前に陶器を焼く窯のかどで怪我したのだと証言する。おまけに、彼は失踪した二人の女性を知っているとまで主張しており、彼女たちがどうなっているかも知っているかもしれないのだ。だが、少量の乾いた血痕だけで、だれかがもう疑われたというのだろうか?この男の仕事は買占めなんかではなく、ノヴァ校でフランス語の授業をしており、そのおかげで彼は生活でき、それと引き換えに製陶技術の初歩を現場で学びつづけていられるのだ。彼は師匠について実習することからはじめ、京都市街の西に自分の窯を設けた。この界隈は昔は貴族階級の住んでいた所だが、今はまったくさびれていた。彼は丘の間の元ヤク注2ザのアパートに住んでいる。それは広大な庭園のそばにあるごく小さなビッラ別荘である。家主はきちんと家賃を受け取っている。そうしなかったら、持主のヤクザ仲間に脅かされていたことだろう。関西地方に数年間すごした後、彼はかなり長期間フランスに戻っていた。その後、観光ビザでふたたび日本に入国し、ビザは半年毎に更新できる労働許可証に変更された。妻や愛人は知られていない。しかし、彼には兄弟姉妹はなく、三島のようにホモセクシュアルな男性に誘惑されている様子もない。 原注1 関西地方には、大阪、神戸、京都といった大都市が含まれる。 原注2 日本の泥棒グループの一員 陽が沈み、警察署の窓下を通って帰宅する大谷中学校の生徒たちの声がやんだ。彼らは皆、マリンブルーのベストと灰色のズボンに黒い靴をはいている。この見かけ上の確実性が真実を隠蔽するはずはない。だって、生徒のひとりひとりが予測しがたく、最も常軌を逸した毛細管的な工夫でその個別性を養っているのだから。鼻や上下の唇や両ほほ、は言うに及ばず、最も多いケースである舌でさえほとんど透明なイヤリングがはめこまれているのだ。尾形刑事は顔をわずかに外にかしげて彼らを眺め、息子のことを考えた。彼らの頭の中で何が起きるのか知るよしもないが、しばしば彼らの口から恐ろしい言葉が飛び出す。彼らはお互いにランドセルでやたらと殴りあい、あるいはいちばん弱いものを囲いの壁で押しつぶすのだ。もしや新たな犯人がすでに彼らの間にひそんでいはしないか? うちの息子は?……尾形刑事は考える。 年長の息子を夜間学校へ迎えに行かなければならないのだが、無理だろう。実直な運転手の遠藤に代りに行ってもらおう。 自分の息子がいつか殺人犯にならないか、あるいは犠牲者にならないかがわかる父親とは、いったいどういうやつだろう? 息子はきょう、裾に折り返しのついてない、汚れてぼろぼろのズボンをはいていた。日本の中学生全員がやっているように靴にだらりとかぶせている。誰も何も言わない。流行なのだ。大事なのは、スクールカラーを守ることだ。月曜ごとに、校長が生徒たちを校庭に集める。校長は彼らに毎回同じ説教をする。だれも聞いていない。 ちょうど二年間、国に帰っていました。引越し荷物のなかに青白の磁器が入っていました。空になったアパートのドアの後ろでは、どんなささいなことであれ、初めの生活を思わせることはできないものです。段ボール箱を開くとたくさんの皿類が割れていました! 外国人の男は椅子の下で足を動かした。わたしはこの男の云うことがまるでわからない。外国語が習われ始めて四〇年は過ぎていない。この男は入り口を嗅ぎまわっていた。武器は持っていなかった。両手は震えている。正確な日本語で自己を表現していたが、しかし不十分だ。ある大学の教授はしきりに通訳を使いたがった。やつらは知り合いだったのか? いや、確か反対だったはずだ。同じ学部に勤務してはいても、けっして出会うことはなかっただろう。このあたりにはe‐メールが入り込み、大規模ネット・ワークが接続されているにもかかわらず、不透明な仕切りが立っているのだ。老教授連中の最後の学期は隠然たる喧嘩によって暗澹たるものとなる。新入り教授たちの最初のお手合わせはエレベーターで昇り降りする妙なる道行きの間にいかに黙ってぺこぺこできるかにかかっている。
―ダンボール箱には何が入っていたのかね?
―かがやく朝日を受けて、たくさんの品物や書類が溢れ出ました。全部数えれば長い時間がかかるでしょう…
尾形刑事は日通国際運送会社の領収書を調べていた。貨物明細目録によれば、多くの茶碗、数個の花瓶、ドアのカーテン、筆、 注3和紙などが入っていたことがわかった。 原注3 やや厚めの枚葉形の、天然の柔軟な紙
―わたしの好みは必ずしも値段じゃなかったんです。たとえば、赤い真珠層の大型の貝殻や、銅鑼を載せた紫色の絹の小型の座布団など…
―銅鑼だって?<br>尾形刑事は驚いていた。伝統を確認させられていた。どんな死者、どんな生者に話しかけるつもりだったのだろうか?
―この銅鑼は大阪の四天王寺で買いました。小さく、せいぜい2回打つと、一度だけ強い音がふくれて、日本精神にいざなわれるんです。両手が機械的に、あの世でするように真実心をこめて合わさるんです…
―その時何を考えるのかね?
―とくに誰のことも。僕自身の今の寂しさのことを…ぼくがたびたび訪れるあの世の人たちのことを。もうけっしてふたたび会うことはないと感じるすべてのひとのことを。
―その人たちの中には、われわれが捜している女性もいたのかね?
―ええ、でも他のたくさんの人たちといっしょです。たくさんの顔が輪になってわたしの精神に迫ってきました。あるいは音符だったかもしれません。ねえ、子供の頃、ベッドで夜の暗闇の中で、網膜をまだ震えさせているアニメを見た後で、眠ることができないように…
尾形刑事はどっと笑い出した。その笑いは夜の真珠になってこぼれ、街のうわさに追いついていった。もちろん、尾形刑事も通訳者も「シャドック」のことは知らなかった。この男を大学病院の精神科に委ねるべきだったろうか? ふたりの女性を殺したのがもし彼であったなら、たしかにスキャンダルになるだろう。せいぜい彼がふたりを直接消費することを楽しんでいなければよいが!
―ほら、あんたの頭が廻り始め、ラインの動く範囲に音符が集まる。ト音記号がひとりでに前進する。すべてが音波の下で振動し、よみがえるのは常に同じ耐え難い旋律です。5つか6つの音符がばらばら降ってきてもうあなたを放さず、闇の中で2本の指を唸らせながら、あなたは起きたままでいる。だからあなたはこれらの妙なる存在にとても近くなるんです…
尾形刑事は日本の空港の税関吏のように、すぐに言葉を続けた。
―あんたはこのたぐいの品物を持ってきたかね?
そして彼は自分の鼻の下でモンタージュ写真を振り回した。そこには注射器、ドラッグ、乾燥した蛇、ポルノ雑誌、Xヴィデオ、メリケンサック、刀、銃剣、土蜘蛛、生きた蛇、さそり、しだの束、臓器、幻覚剤が写されてあった。つまりそれは悪の一覧表だったのだ。 外国人は吐き気を覚えた。顔からは不快感が読み取れたが、この否認の動きは結果として突発的なひらめきをもたらした。いや、彼にはそれらしいところはまったくなかった。芸術的な美しいヌード写真数枚を持ち去ったことを彼は認めた。また、エロチックとグロテスクの間の、少なくとも風変わりな浮世絵の伝統を踏襲している佐伯 注4俊男の本もあった。刑事はこの挿絵画家をよく知っていた。この画家は信仰と堕落のきわめて個人的な明細目録を作成した人で、ヤスデの姿をした痴漢でなければ、悪魔あるいはトカゲ類の姿をした角の生えた生き物たちが、眠っている女子中学生を襲いに来るというようなものであった。「ガイジン」は紙ばさみの中に一連のエロチックな写真を集めていた(彼はこのジャンルにこだわりがあったのだ)。それらは竹林の中をジョギングしていたときに偶然みつけたものだった。(続く)
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