Nov 30, 2008

哀しみの幸せ

秋の日展で、H.M さんの「失楽園」と題する 日本画の前で、そう言葉が浮かんだ。日展は、学生の頃 めずらしく両親と上野で伊東深水の絵を見たとき、その上品な大画面に心が晴れ晴れとした記憶がある。あれ以来、日展に来たことはなかった。両親はたしか小林古径を見に行ったのだった。H.Mさんの絵には、華やかさと毒とがあって、荒れ地野菊と狐をとりあわせた隣の絵に負けたと思ったと打ち明けられて、この真剣さが高校生の頃の負けず嫌いを思い出して、若くて本物だと感じた。なによりも、この人の本性が作品化されているところが凄い。わたしは、デーモンにおいて負けていると感じた。いい絵だった。来年、再来年と挑戦していってほしい。同級生だから、すごく励みになる。 
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Nov 06, 2008

「咲くということは贈り物」

塚越祐佳『雲がスクランブルエッグに見えた日』、水島英巳『樂府』を読み、それぞれにある種の思いを持った。『樂府』はfolk songと併記され、内表紙には「がふ」とルビがつけてある。中国語で諷刺を交えた歌謡を言うという。集中22篇のうち、最初から8番目の詩「山帽子」がダントツにすばらしい。始めから読んで来て、ここで、ふわっと意識が海上に飛翔した感覚を持った。哀しいほ澄み切った珊瑚礁の海に。「無断で生まれ、散策するように生きてきた…そういうものとは無縁に山帽子が門前に咲いている」。先日私は自分の詩の朗読会で1987年から2005年の18年間に5冊の詩集を刊行して95篇を発表した。今夜はそのうち良いと思うもの17篇を読みます。と言った。会の後の飲み会で、自分の詩を残したいと思うのか。と質問され、「17篇も残そうと思うなんて虫がいい」とからかわれた。さらに、今夜ウドーさんが読んだ中で、いま覚えているのは3つ位かな。あとはどんな詩だったかも覚えていないよ。と、これは、あさやけ3羽がらす中の1羽の有難いご意見だった。いま、このやり取りを思い出している。水島さんの22篇の中に1篇、ここに全部書き写したいほどの詩に出会うことが、自分が詩を書き、ひとの詩を読み続ける理由なのだ。あさやけのお兄様がたは、そうカンタンに他人を認める人たちではないから、あの厳しい物言いは、言いかえれば、今夜はご苦労、というオマージュなのだと信じている。『雲が…』は、若い人の詩にありがちな言葉自体の自己主張をあまり感じないという感触を持った。詩語に疎いのとはまた違う。言葉をコントロールする知性が作用するゆえの、ぎこちなさ。これは貴重だと思えた。
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