Oct 24, 2007
『白鯨』を返却した
昨日、貸出期限を1週間遅れて町田図書館に『白鯨』を返した。「返却期限は守りましょう」というポスターを見上げながら。前回、期限延長は1回しか出来ません。と釘を刺されていたから、確信犯なのだ。『白鯨』は本当に読みにくい小説だ。理由はメルヴィルの過度な夢想癖にあると、解説にもある。小説というより、鯨百科辞典というほうが当たっている。だが、おもしろかった。メルヴィルという19世紀末のニューヨークに生きた人物に充分共感が持てるからだ。家が没落し、10代後半から20代にかけて商船員つぎに捕鯨船員になった。ニューヨークという町からはみだしたのだが、捕鯨が真っ盛りの時期で、捕鯨業界は常に人手不足だった。「わたしのハーバードは船上の経験だ」という言葉も素直に納得できる。結局この時期のこの経験がメルヴィルを一生涯支配したといえる。捕鯨船は辛すぎて途中の南平洋の島で脱走した。ランボーはジャワでオランダの軍艦から逃亡したという。メルヴィルとランボーは同じ年、1891年に亡くなっている。メルヴィルは9月、ランボーは11月。メルヴィルの作家としての不運。晩年に20年もサラリーマンをやった作家なのだ。このひとは読者のために物を書いていない。自分のために、というより、自分の思いを文字に変えているのだ。プルーストに似ているが、プルーストより内面的だ。独学の臭みも指摘されている。何となく素人くさい。だが、プロとアマの線はどこで引くのか。出版の当てもなく、生涯小説と詩を作り続けた男。フォスターにも似ている感じがする。
カエールの長詩に取り組む準備が出来た。
Oct 16, 2007
『白鯨』に戻る
ようやく『白鯨』にもどった。全135章中のいま73章目だから、ほぼ真ん中。今回は一気に最後まで読み終わりたい。この小説の読みにくさは、高校時代にドストエーフスキー全集に取り付いた時のことを思い起こさせる。夏休みの大半を費やして昼間は二階の柿の木を見下ろす窓辺で、夜は布団の中でも読み続けた。夏休みの報告をした時、国語の女教師が、そんなに時間がかかったのって、原文で読んだのと聞いた。その時怒りを感じた。こいつ教育者として認識不足だ、高校生がロシア語を読むわけがないじゃないか!以後、先生を分別するようになった。良い教師と悪い教師はすぐに判別がついた。生徒は愚かだから、教師の評価をそのまま自分の態度にする。優越感のお墨付きをもらったというわけだ。先生に褒められたり、テストが上位だったりすると、トタンにクラスのやつらのまなざしが軽蔑から尊敬に変るばかばかしさ。この女教師の高飛車な質問にマイナス点が付いたわたしはますます孤立した。いじめは教師が作る。教師は教唆犯だ。でも、ドストエーフスキーは好きだった。自意識というものを教えてくれた最初の人物だった。メルヴィルは翻訳でさえ読みにくい。この作家は読者のために書いてはいない。自分の経験と意識を文字に定着しているだけだ。人の意識はこんぐらがっている。読みにくいのが当たり前だ。Oct 08, 2007
勘のいい大家さん
大家さんの鱗造さんが
昨夕
ブログの
入力方法を
もう一度
教えてくださいました
勘のいい
大家さん
ひとりでないんだなって
気づきました
いつもあまり自由にさせてもらっているので
大家さんのこと
忘れてしまっていました
素晴らしい大家さんだなー
と昨夜は安心して
ぐっすり眠りました