Feb 19, 2007
異文化を生きる
いそいそと腐敗遠のく余寒かな春雷来手のひらでカスタネット打つ
追うて来し恋猫お茶を出している
余白句会の3句。いそいそが2点、春雷がゼロ、恋猫が1点。そして、批評も、主語がぶれているというわけ。それで考えてみたが、わたしはこれでいいのだと結論に達した。やればやるほど、俳句が異文化に感じられる。自分とのそりが合わない。人に言うと、自分を捨てないからだと言われる。そうじゃない、捨てれば捨てるほど、反発が強くなる。これはいったいどうしたことだろう? 第一詩集を出した時、花鳥風月がないと、ある人から感想をもらった。文化の基礎が異邦人だということか。いいえ、わたしは日本人ですよ。わたしはそう言えるが、言えない人はどうするだろう? 2,3日前アメリカ人の禅僧の対話を3チャンでみて、ああ、と思った。この人は、座禅に苦しんだ挙句、最後に「鏡が窓になった」 と言っていた。テレビの画面で見ても、透き通るような感じだった。50代のはじめぐらいか、なんだか痛々しすぎる気がした。 異文化を生ききることの凄惨さを思った。 はじめのうち寅さんが猛烈いやだった。今は、寅さんが好きだ。 でも、なぜあれほどいやだと思ったのか、そこに自分というものの置かれた文化状況があるのだと、時々思う。
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