Sep 27, 2006
やーっと、
パソコンが直って帰って来ました。マザーボードとCPUの交換という大掛かりな手術を経たものの、
約一ヶ月ぶりに元気な姿で帰宅。
なによりよかったのは、ハードディスクが無事だったこと。
なにせここ一年ぐらいで書いた詩が、ぜーんぶ入ってたんですから。
あぶないとこでした。
あとパソコン購入時に、3000円払って補償に入っていたおかげで、
今回の修理代三万数千円はタダでした。
入っとくもんですね。
先週の日曜日は、恒例の合評会。
今回はあまり発言することが出来ませんでした。
というのも、これはいつものことなのですが、この合評会に参加されている方々は、
みな詩人としてのキャリアを多く積んでいる方ばかりなので、それぞれが大変個性的で、
しかもクオリティも高い詩作品を毎回提出されています。
するともう、どこどこをこうした方がいい、とか、そういうことはなかなか言えなくなってしまいます。
欠点と言えなくもない部分でさえ、その人の個性と捉えることが出来、そして実際そうなのですから、
それを言うのは野暮、ということになって、すると結局、それぞれに褒めあってお仕舞いになってしまい、
それはそれで気持ちよくはあるのですが、考えてみれば、
それでは合評する意味があまりないのではとも思います。
それぞれの素晴らしさを認めたうえで、さらに突っ込んだ読みをし、様々な立場、
角度から意見を言うことが必要なのですが、私はそれが出来ていませんでした。
反省です。
合評会の中心メンバーのTさんは、そういう詩の読み方をし、意見を述べられています。
彼のばあい、前置き抜きにして、いきなりかなり深いところに突っ込んでしまうので、
周りがついていけなかったり、反発を受けたりするのですが、作品を書いた者にとっては、
そういう意見が実は一番有意義であるのでしょう。
実際私も、自分の作品に対しての彼の意見は、非常に参考になります。
まず充分鑑賞し、そして批評していく、という姿勢。
純粋な読み手としては、鑑賞だけで充分なのでしょうが、書き手同士、互いを高めあって
いく場として合評会があるのだとしたら、それだけでなく、書き手だけが持つ目を持って
批評しあっていくことが必要でしょう。
とは言うものの、今回のみなさんの作品はみんな良かった…。
ほんと、これ以上何を言えばいいの?というくらい。
でもそれぞれに壁を前にしていることも確かなんですね。
合評会として、ひとつ山を越えるべきところに来ている気がします。
こんばんは。今回の小川さんの日記、PSPに参加している者として考えさせられる内容でした。ここから先、合評会としてどう進んで行くのか、という。
ぼくは個人主義のせいか、合評の場では、どなたがどのように自分の詩を読んだか、という鑑賞の部分がわかれば、それを持ち帰ってあとは自分でまた書いていけばいい、という風に考えがちです。今回も、十分に得るものがありましたし。
ですが、ここから先へ合評の場としてどう進んで行くのか、というのは問いが異なるんですね。
最近読んだ本で、写真家のアラーキーが高梨豊と対談している箇所に、似た話が出てきました。以下引用してみます。
荒木 (前略)それぞれ写真に対して考え方が違うのはいいんだよ。でも「俺の方が正しい」って無理矢理押しつけなくなってきたじゃない。
高梨 なくなったね。
荒木 「お前、それは間違ってる」って。「俺が言ってるほうが正しいんだ」とかさ。そういうことがないよね。
高梨 ないね。
荒木 他人は他人、自分は自分っていうのは問題だよ。ハッキリと「てめえの写真より俺の写真の方がいい」っていう奴がいっぱい出てこないとダメだと思うんだけど。(中略)私が一番!!っていう嫌がられる奴いないだろう。妙な、お互いを許しあう連帯感があるんだよね。
引用以上です。これを詩におきかえるなら、詩論をたたかわせるということになるかと思います。小川さんのおっしゃっている「それぞれの素晴らしさを認めたうえで、さらに突っ込んだ読みをし、様々な立場、角度から意見を言うこと」とはまた別の話ですが、どちらも、合評をいかに深めていくかの論点になるかと思います。
会場の時間はかぎられているので、詩論をたたかわせるところまで各々の作品すべてをめぐって行うのは現実的ではないかもしれません。(二次会でやるのは、お酒が入ることを考えると、ちょっとぼくは遠慮したいような。。汗)。
ですが、小川さんがおっしゃる「それぞれの素晴らしさを認めたうえで、さらに突っ込んだ読みをし、様々な立場、角度から意見を言うこと」は可能ですよね。現にTさんはそうなさっていますし。
ぼくに分からないのは、書き手がよって立っている詩論です。おおまかなところでは分かったつもりでいても、なぜこの一行なのか、と詩に対面するところから入って、「ああそうか。この人はこうした詩論に立っているからこの詩行が出てきたのか」という見え方をできるところまで、行けていないのです。だから、突っ込んだ読みは可能かもしれません、様々な立場、角度から意見を言うことはできるかもしれませんが、なかなかことばとして発しづらいものがあるのです。
それは、ぼくが、もしかすると、合評にのぞむ覚悟ができていないからかもしれません。書き手は、そうしたことを望むものなのかもしれませんね。こうした問題について考えるとき、ぼくはここ数年いつもリルケの「若き詩人への手紙」の冒頭の一節をよぎらせます。それでも、互いを信じて、踏み込む時期に来ているのかもしれません。信頼があり、相互理解が深まっていてこそ、読みの場ができる、というのはTさんがPSPについておっしゃることでもありますし。
小川さんに引っ張ってもらったようにも思える文章でした。少し考えてみます。ありがとう。
白井さん、どうもありがとうございます!
私も個人主義ですから、合評会に臨む立場としては白井さんと同じです。
私の詩を読んでくれた方から、自分はこのように感じた、自分はこんな風に読んだという意見を頂くのは、非常に参考になりますし、嬉しいことです。
それはそれとして大切にして、しかしさらに下まで降りてくことも、また必要なのではとも思うのです。
そこまで降りてきて初めて、見えてくる疑問もあるのではないかと。
ただ、ここから先は非常に難しくて、なにしろそこにはむき出しの個人がいて、はっきりとした差異が生じているのですから、そこでの意見のぶつかりあいは、詩論のぶつかりあいであると同時に、個人そのもののぶつかりあいになってしまい、下手をすると人格否定にすらなりかねません。そして恐らくは答えなど出ず、結局合評会なんて無意味じゃないかという結末を迎えそうな予感もします。
しかしその山をうまく乗り越えたら、なにか有意義なことが可能なのではないかと。
それには、勇気を出して、相手に一歩踏み込むことも必要ですし、同時に他者を自分へ受け入れることも必要になり、さらにはその両方をいい感じに調整するという大人の判断も必要になると思います。
む、まだちゃんとした答えは出せていません。
とりあえず、いまはこのあたりで。
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