Aug 19, 2007
狂言と詩
先日、テレビで、ある狂言師がインタビューに答える番組を見た。
狂言のせりふや動作には「型」があるという。それは、演じる個人を超えて万人の共感をえるためのものだという。もし演者が自分の好きなように演じたとしたら、観客はひとごとのようにしか感じてくれないおそれがある。「型」を通じて演者だけでなく観客をも巻き込んだ感情の共有が可能になりやすい。普遍性と言い換えてもよい。
また、「釣狐」という演目のさわりを紹介しながら、人間の理性と欲望の葛藤を、利口な狐が最後には油揚げに釣られてしまうというストーリーになぞらえて表現しているという話もあった。
詩も,どこかで個人を超えた感情表現を目指していると言う点では、狂言と通じるものがあるような気がした。自由詩といいながら、詩歌が、どことなく「型」を求めているような気がするのはそのせいかもしれない。
狂言師の話を聞きながらふとそんなことを思った。
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